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月島飛行場(晴海連絡用飛行場)跡地 [├空港]

  2012年4月 訪問 

無題1.png

東京都‎中央区‎晴海‎5丁目‎にあった「月島飛行場(晴海連絡用飛行場)」。

進駐軍が土地を接収して作った飛行場です。

残念ながら名称、滑走路位置について資料を見つけることが出来ませんでした。

前記事でも書きましたが、進駐軍が接収した土地を青で囲みました。

そして最も滑走路があった可能性が高そうな場所を灰色で塗りました。

仮にこうだとすると、滑走路の長さは770mです。

名称、滑走路位置共にオイラの推測ですのでご了承くださいませ。

 

「中央区三十年史」によりますと、当地は明治20年に着工した埋立地です。

「月島一号地」~「月島四号地」までの埋め立て事業が実施され、飛行場のあった当「月島四号地」は昭和6年4月竣工しました。

「月島四号地」は晴海1~6丁目に区画されており、晴海5,6丁目は日本陸軍の占用地として使用されていました。

この場所が終戦と共に進駐軍に接収され、邦人の立ち入り禁止区域となったのですが、

「接収時の名称、用途」蘭には、「レシーバー・アイランド」と記載されています。

つまり米軍の通信基地として使用されたわけで、そこに飛行場が建設されました。

 

D20_0059.jpg

「晴海三丁目」交差点から滑走路方向。

 

月島飛行場(晴海連絡用飛行場)跡地:map  


      東京都・月島飛行場(晴海連絡用飛行場)跡地      

月島飛行場(晴海連絡用飛行場) データ

設置管理者:米軍
空港種別:連絡用飛行場
所在地:東京都‎中央区‎晴海‎5丁目‎
座 標:N35°39′09″E139°46′40″
滑走路:770m?
磁方位:05/23?
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1945年09月 進駐軍により接収。終戦までは陸軍の占用地だった
1957年03月 「当月末現在、土地提供中」と資料に記載あり

関連サイト:
国土地理院 1947年8月当時の写真(USA M388 126) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)  
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この記事の資料:中央区三十年史・上


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旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕 [├場所]

  2012年4月 訪問 

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東京都府中市‎白糸台‎2丁目にある「旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕」。

調布飛行場の西約1.5kmに位置しており、甲州街道と西武多摩川線の交差部南側の住宅地の中にあります。

事前にグーグル等で調べた際には畑と駐車場に挟まれている状態だったのですが、

お邪魔した時にはご覧の通りでキレイに整備されていました。

 

D20_0011.jpg

説明版が設置されています。 一部抜粋してみます。

■掩体壕
 アメリカ軍による本土空襲の激化に伴い、残り少ない貴重な戦闘機を空襲から守り、隠しておくための格納施設が、全国の軍用飛行場周辺に作られました。この施設のことを一般的に「掩体壕」と呼んでいます。コンクリート製の屋根のあるものを「有蓋掩体壕」、周囲を土堤で囲ったのみで屋根がなく、上は木や草で作った覆いをかけたものを「無蓋掩体壕」と呼び、区別しています。調布飛行場周辺では、昭和19(1944)年6月から9月にかけて、有蓋約30基・無蓋約30基、あわせて約60基の掩体壕が作られました。建設は陸軍と建設業者が中心となり、地元住民や中学生も作業に動員されました。有蓋掩体壕は、①饅頭のように土を盛り、よく固める②その上に紙やムシロ、セメント袋などを敷き、柱や梁の部分は板枠で型をとる③鉄筋を置いてコンクリートを流し込む④コンクリートが
固まったら、内部の土を掘り出して上にかぶせ、草木などで偽装する という手順で構築されたと考えられます。労力も物資も乏しい戦時下に、粗悪な資材を用いてきわめて短期間のうちに造られたものである、といえます。また、こうして造られた掩体壕だけでは数が足りず、格納しきれなかった飛行機は、浅間山や多摩霊園、下石原八幡神社、調布市飛田給方面などの樹木の茂った場所に設けられた「分散秘匿地区」まで運ばれました。かつて全国に1000基以上作られたといわれる掩体壕ですが、その多くは既に取り壊され、現存しているものも、経年による劣化や開発工事などによって、消滅の危機にあるものが少なくありません。

■旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕
 終戦後、調布飛行場周辺の掩体壕も、多くは取り壊され、現在は三鷹市の都立武蔵野の森公園内に2基(大沢1号・2号掩体壕)、府中市内に2基、計4基の有蓋掩体壕が残るのみとなりました。そのうちの1基がこの旧陸軍調布市飛行場白糸台掩体壕(以下、「白糸台掩体壕」といいます。)です。白糸台掩体壕は、旧所有者が繰り返し補修を行ってきたことから、これまで良好な状態で保存されてきました。府中市では平成18(2006)年の平和都市宣言20周年を機に、白糸台掩体壕の保存・公有地化を決定し、平成19年12月から平成20年3月まで、その構造などを確認するための調査を実施しました。その結果、戦闘機「飛燕」とほぼ同じ規格で造られて
いたことが判明したほか、排水設備や砂利敷き、誘導路、実際に機体を収納していたことを示すタイヤの痕跡などが発見され、平成20(2008)年に市の史跡に指定しました。その後、コンクリートや鉄筋の保存修理工事を経て、平成23(2011)年度に保存整備を実施し、平成24(2012)年3月より一般公開を開始しました。終戦から長い年月が経過し、戦争の記憶が風化していくなか、戦争遺跡を文化財として保存・活用していく気運は全国各地で高まっています。戦争の悲惨さや平和の尊さを次の世代へと語り継いでいくための貴重な歴史遺産として、市民の皆様と共同で白糸台掩体壕を永く保存・活用していくため、今後ともご理解・ご協力をお願いいたします。平成24年3月 府中市教育委員会

 

D20_0034.jpg

掩体壕内天井部分

 

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開口部は北西を向いてます。

 

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後ろから見たところ。

 

 

旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕


      東京都・旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕      

旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕 データ

管理者:旧陸軍→土地?所有者→現在は府中市
所在地:東京都‎府中市‎白糸台‎2丁目‎17‎
座 標:N35°40′04″E139°30′47″
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1944年 6月~9月にかけ、有蓋約30基、無蓋約30基、計約60基の掩体壕が作られる
1945年 終戦。取り壊しが進む中、当掩体壕は所有者により補修が続けられる
2006年 平和都市宣言20周年を機に白糸台掩体壕の保存・公有地化を決定
2007年 12月~翌年3月まで構造等確認調査を実施
2008年 市史跡に指定
2011年度 保存整備を実施
2012年 3月より一般公開開始

関連サイト:
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旧日立航空機株式会社立川工場変電所 [├場所]

  2012年4月 訪問 

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東京都‎東大和市‎‎ 東大和南公園内にある「旧日立航空機株式会社立川工場変電所」。

立川発動機製作所の変電所が現存しており、外壁には機銃掃射、爆弾による無数の穴が残っています。

銘板が設置されていました。

東大和市文化財 史跡・戦災建造物 旧日立航空機株式会社立川工場変電所(全文)
 この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。北隣にあった設備で受電した66,000ボルトの電気を、3,300ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P-51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B-29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。 平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会

弾痕でボロボロの建物。

20年ほど前まで現役だったのですね~。すごいことです。

 

旧日立航空機株式会社立川工場変電所:map  


      東京都・旧日立航空機株式会社立川工場変電所      

旧日立航空機株式会社立川工場変電所 データ

設置管理者:日立航空機株式会社
所在地:東京都‎東大和市‎桜が丘‎2丁目‎ 東大和南公園内
座 標:N35°44′07″E139°25′16″
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1938年 日立航空機株式会社立川工場建設
1945年 三度の襲撃を受ける
1993年 12月まで変電所として使用
1995年 10月。 東大和市文化財(史跡)として指定。修復工事

関連サイト:
東大和市/わわがまちの文化財(PDF)  
Wiki/旧日立航空機立川工場変電所   
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東京・埼玉に行った話 [■旅行記]

ゴールデンウイーク初日、東京都埼玉県のヒコーキ関係の場所を見に行ってきたのでした。

7時過ぎに自宅出発。

8時前、東大和市の「東大和南公園」到着。

この公園内には戦時中のヒコーキ用エンジン工場の変電所跡が残っているのです。

公園を一周してみたのですが、駐車場はまだ開いてないようだったので、目当ての変電所跡すぐ近くにある

24時間の食料品店に車を停めさせていただくことに。

まずはここで昼食用のお弁当を購入して後、ササッと公園で目当てのブツを撮らせて頂きました。

変電所正面では、「第1回 東大和市グルメコンテスト“うまかんべぇ~祭”」の準備の真っ最中でした。

開店準備で関係者がわらわらしている中、写真を撮らせて頂きました。

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変電所裏側。

芝に不思議な物体が埋まっていたり、転がっていたりしてました。

その1つに「80年代だったか90年代だったか製造」と書かれていたため、この変電所とは関係ないだろうと思ったのですが、

自宅に戻ってから調べたら、なんとこの変電所1993年まで現役だったのでした。

 

次。9時、調布飛行場近くの「白糸台掩体壕」到着。

少し前に調べた際、「白糸台掩体壕は野菜畑と駐車場に挟まれている」。とのことだったのですが、

とてもキレイに整備されていました。

説明版によりますと、市による整備が進められ、ちょうど先月一般公開を開始したのだそうです。

まったく知りませんでしたが、オイラにしてはタイミング良かったです。

調布飛行場には4つの有蓋掩体壕が現存しており、2つは飛行場に隣接する公園内にあって、以前見学済→ で、

今回見学した掩体壕はオイラ的には3つ目になります。

そしてまだ見ていない4つ目は私有地内にあり、ネット情報によりますと敷地内からの見学は断られてしまい不可なのだそうです。

今回お邪魔した「白糸台掩体壕」の説明版にも、「4つの掩体壕が現存する」と明記されています。

そして飛行場周辺の地図が載っていて、3つの掩体壕は場所が図示されているのですが、私有地にある4つ目の掩体壕は

示されていません。

きっと所有者の方の意向なのでしょうね。

オイラの勝手なイメージでは、この白糸台の掩体壕が今後も存続できるかどうか一番怪しいと思っていたのですが、

こうしてしっかり整備されてよかったです。

 

D20_0038.jpg白糸台掩体壕

 

次は一気に東京湾まで移動。

「中央区晴海に進駐軍の飛行場があった」とコメント欄で教えて下さった方がおられ、早速行ってみることにしたのでした。

ゴールデンウイーク中ということで都内の道路はどこもスイスイでした。~~~(⊃゜Д゜)⊃

 

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晴海客船ターミナルから。

 

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D20_0055.jpg

「晴海三丁目」交差点から春海橋方向。

実は晴海にあった飛行場については位置がハッキリせず、

「現在の晴海五丁目にあった」という説と、

「ホテル浦島のあった交差点(晴海三丁目交差点)から東の方(春海橋方向)に滑走路があった」という説があります。

1947年の写真で見ると、この交差点から春海橋方向にやけに太くて真っ直ぐな道路が伸びています。

一応5丁目方向にも真っ直ぐ道路が伸びているものの、これほどではありません。

それで、「春海橋方向に滑走路があった」説の方が正しいのかな。と思っていました。

この説を信じて撮ったのが上の写真。この場所から奥に向かってが滑走路だったことになります。

その後情報収集のため地元の図書館へ。

 

無題.png

「中央区三十年史 上」という書籍の中に占領軍に接収された中央区の土地と建物の状況図がありました。

その図に従って晴海1~5丁目で接収されていた場所を囲んだのが上図。

オイラは「晴海三丁目交差点~春海橋が滑走路だったに違いない」と考えていたのですが、

上図を見ての通りでこの部分は接収されていないことが分かります。

むしろ接収されていたのは逆の側で、春海三丁目交差点からやけに細長い接収地が伸びています。

 

無題1.png

ということで、この資料を見てから滑走路はこんな感じでだったのではないかと考えが変わりました。

春海三丁目交差点から春海橋方向の写真は撮りましたが、逆側の写真は撮ってません。

もう一度戻らねば。そう考えて図書館を後にしたらもうお昼過ぎ。

晴海ふ頭公園の辺りに車を停めて先にお弁当を食べることに。

昼食後、ちょっと仮眠をとろうとしたら、オイラの車の後ろにスイ~とパトカーが停まり、お巡りさんが2人降りてきました。

通り沿いにはコッチ側にもアッチ側にもずらりと駐車車両あるのに、何故にピンポイントでオイラなの??

オイラアヤシイ? ねえ、そんなにアヤシイ?(つД⊂;)

「お休みのところすみませんね~。最近刃物を持っている人が多くてね~。 刃物 持ってませんか?」

「持ってません」

「悪いけど、ちょっと車内を見せてもらっていいですか?」

ということで、ダッシュボードの中、荷物室など調べられました。

オイラ持ってそう? ねえ、そんなに持ってそう?? (つД⊂;)

「あー、写真が趣味なんですね」カメラバッグに気が付きました。

車内にあんなフィギアやこんなフィギアを飾っていたら、撮影した中身も調べられたのかもしれません。

いえ別にそんなフィギアは持ってませんけど。そんな趣味はないですけど。本当に。

お巡りさんはようやくオイラが刃物もってないと納得してくれたらしく、パトカーに戻りました。

てっきり他の車両も取り調べするのかと思ったら、そのままどこかに走り去ってしまいました。ズルイ!

お巡りさんが立ち去ると、すっかり目が覚めてしまったので、もう出発することに。

春海三丁目交差点の写真を撮って次に向かいました。

 

次に向かったのは同じ中央区にある「東京シティエアターミナル(T-CAT)」でした。

運転中ラジオで時々羽田、成田の発着状況が流れてて、「箱崎の東京シティエアターミナル、T-CATからお伝えしました」。

というお決まりの文句がいつの間にか刷り込まれています。

(T-CATって一体何者? 箱崎にヒコーキのコントロールルームでもあるのかしらん)などと、長年ナゾの場所でした。

 

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またたびくん

 

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D20_0072.jpg

閉店したテナントが多くて閑散としてました。

 

その後、江東区の洲崎飛行場跡地、東京大空襲・戦災資料センター、大宮の中島飛行機飛行場跡地を見学して、

夕方自宅に戻ったのでした。

なんだか疲れた1日でした。

おしまい。


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とり日記 [■ブログ]

夏の話2つ。

先日自宅で大掃除をしていた時のことです。

30℃超えの暑い日でした。

チャイムが鳴ったので出たところ、宅配のおねーさんでした。

「はい」とドアを開けたオイラに、おねーさんは「…あ」と短く発して一瞬目が泳いだ後、

気を取り直して「代引き荷物のお届けです。○○円です」と。

「ちょっと待ってくださいね」と言って財布を取りに部屋に行きながら、おねーさんの最初のリアクションはなんだったんだろう、

と気になったのですが、お金をおねーさんに渡す直前に気が付きました。

なんとオイラ、上は普通にTシャツだったのですが、下はトランクスですた。。。 _| ̄|○ il||li

今更ズボンをはきに戻るのもなんなので、平静を装いつつお金を渡したのでした。

きっとおねーさんの不快指数は今季最高値を記録したハズ。

S川急便のおねーさん、イヤなものを見せてしまってゴメンナサイ。

 

お口直しにもっとマシな話を。

今週の火曜日の朝、今シーズン初めてセミが鳴いてました。

その日は朝からお得意先回りだったのですが、つかみはもっぱら

「まだ梅雨だというのに暑いですね~。今日はセミが鳴いてましたよ」

というものなのでした。

そしてその日の午後に回ったお客様から、

関東梅雨明けしたらしいですね!」と教えてもらいました。

気象庁の発表より早く、セミは梅雨明けを知っていたのですね。

 

おわし。

p.s. これから暑くなりますので皆様体調お気を付けくださいませ。


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福永(掛塚)飛行場跡地 [├空港]

   2012年3月 訪問 

無題6.png

静岡県‎磐田市‎掛塚にあった「福永(掛塚)飛行場」。

おおよそこの辺りにあったらしい。ということを知って2010年11月に一度お邪魔して車でぐるぐると探し回り、

地元の方数人にお聞きしたのですが場所が分からず、今回やっと見つけることができました。

天竜川河口付近、新掛塚橋の近く(上図A地点)にあります。

 

DSCN0026.jpg

・A地点

写真の通りで説明版が設けられていました。

史跡案内(全文) 福長飛行場跡 福長飛行場は、大正八年(一九一九年)福長飛行機研究所の付属飛行場として天竜川の河川敷に作られた。福 長浅雄、四朗、五郎の兄弟は浜名郡飯田村(現浜松市大塚町)の出身で、兄の浅雄は、羽田飛行学校に学び、その後千葉の伊藤音二郎飛行場に入門し飛行技術を 修得し、掛塚に飛行機研究所を創立した。格納庫内に工場があり大工、鍛冶の職人数人がいた。名機天竜七号や、日本最初の六人乗り大型旅客機が作られた。飛 行場には飛行訓練生が十四、五名がおり、一流のパイロットがこの飛行場より巣立ち活躍した。飛行家として知られた兄弟は、関東大震災の時、掛塚飛行場より 所沢間を飛び通信の確保に活躍した。飛行場の閉鎖後、格納庫は小学校(現竜洋西小学校・B地点)の雨天体操場として長い間使用された。(平成十八年三月)磐田市教 育委員会

飛行場が作られたのが1919年でしたから非常に早い時期に開設したのですね。 

早い時期に飛行場を開設しただけでもすごいことですが、

特筆すべきはここで日本初の旅客機が作られ、操縦士養成が行われたことです。

他の研究所が3人乗りヒコーキを製作したことに刺激を受け、1922年に旅客機の製作に取り掛かりました。

こうして同年10月に完成したのが天竜10号でした。

全長9.4m、全幅12.95m、全高3.10m、自重1100kg、全備重量1,800kg、主翼面積38.0㎡。

イタリアフィアット製水冷式直列6気筒300馬力のエンジンを搭載し、機体は一部ジユラルミン、他は木製、翼は布張り。

時速180km、滞空時間4時間、2人の操縦士と4人の乗客が乗れるもので、

客室には豪華な絹張りでルームランプが付いていたのだそうです。

この天竜10号、陸軍省航空局の性能試験には合格したのですが、「法整備がない」として許可が下りず、

残念ながら旅客輸送はできなかったのだそうです。

 

福長製作所で養成された人物の中には、

後にANAの創立に携わった鳥居清次、女性パイロットの草分けとなった今井小松がいます。

製作された木製プロペラが現存しており、浜松市の南陽図書館(・C地点)2Fに展示されています。

かなり大きなもので、当飛行場が広報で特集された際のコピー等も貼られていました。

これは是非ブログにアップさせて欲しいと思い、図書館職員の方に許可を求めました。

「全国にこういうのが大好きな仲間がいますので、是非ブログに掲載させて頂けないでしょうか」

すると、「図書館は展示場所を提供しているだけで、所有者の了承無しに勝手に許可することはできません」

とのことで、所有者に尋ねて後日連絡を頂けるという話に。

「埼玉からこれを見にはるばる来たので、せめて撮影だけさせて欲しい。許可が下りなければ必ず破棄しますから」

と、小心者のオイラにしては随分食い下がって懇願したのですが、

「当分の間展示していますので、許可が出たら都合の良い時にいつでもまたお越しください」

とのことで、撮影も許してもらえませんでした。

許可が下りればまた行く気満々だったのですが 数日後、職員の方から丁寧な連絡があり、

「『郷土研究家の方等の撮影は許可しますが、個人の撮影はお断りします』とのことでした」と。

そんなわけで残念ながら撮影許可は下りませんでした(;´Д⊂)ウッ…

博物館等最初から撮影禁止を謳っている数か所を除くと、

アチコチ出掛けて飛行場とヒコーキ関連の場所を撮らせて頂き始めて10年、548か所目にして初の撮影拒否でした。

とほほ。_| ̄|○ il||li

静岡県の方は皆さん非常に親切な方が多くて個人的に大好きな県なのですが、

そこまで仰るからにはきっとそれなりのお考えがあってのことなのでしょう。

非常に残念なのですが、所有者の方がそう仰るのなら仕方ありません。

 

D20_0162.jpg

・D地点。福永氏の母校浜松市飯田小学校にある顕彰碑。氏が亡くなった翌年作られました。 天竜10号のレプリカが載っています。

同小学校には福永氏の紹介コーナーがあり、天竜3号のプロペラが展示されています。

また、毎年春に自分の夢を紙飛行機に書いて飛ばす「夢を飛ばそう集会」が行われています。

 

 

福永(掛塚)飛行場跡地(ピンの位置に説明版があります)

      静岡県・福永飛行場跡地     
福永氏は生涯で70回も墜落を繰り返しており、自らを「墜落王」と呼んでいたのだそうです。1928年飛行場閉鎖後はタクシー会社や薬局を経営し、航空界へは復帰しませんでした

福永飛行場 データ
設置管理者:福永浅雄氏
空港種別:陸上飛行場
所在地:静岡県‎磐田市‎掛塚‎
座 標:N34°39′54″E137°47′45″
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1893年 浜名郡飯田村(現南区大塚町)にて福永浅雄氏生誕
1906年 天竜木材会社に就職(13歳)
1909年 父や兄と兵庫に移住して製材業を興し、成功を収める(16歳)
1911年 単身上京し、所沢陸軍飛行場にて三カ月間、徳川好敏大尉の無給助手として働く(18歳)
1916年 日本飛行学校にも顔を出し、操縦技術を学ぶ。フランスからブレリオ25型(天竜1号)を購入するが離陸できず(23歳)
1917年 フランスからグレゴアシップ号購入。着陸失敗で墜落
       滋賀県八日市飛行場で、コードロン式初歩練習機を模倣して地上滑走練習機(天竜2号)を製作(24歳)
1918年 伊藤飛行機製作所製造の伊藤式恵美第2型(天竜3号)にて天竜川の河原に郷土訪問飛行。4万の観衆が集まる(25歳)
1919年 9月、「福永飛行機研究所」設立。福永飛行場付設。飛行機の製作を開始。
       11月、アメリカ製デラックス8馬力エンジン搭載の単葉の地上滑走練習機(天竜5号)完成(26歳)
1921年 浜松地方政財界の有力者が発起人となり、同研究所は「福長飛行機製作所」となる
       飛行機の設計、製作、民間飛行家の養成を始める。全国から6人の有志が集まる。
       7月、イスパノ・スイザ180馬力エンジン搭載の複葉機(天竜6号)完成
       11月、ニューポール式83型ル・ローン80馬力エンジン搭載の2人乗り複葉機(天竜7号)完成(28歳)
1922年 ホールスコット125馬力エンジン搭載機(天竜8号)完成。
       福長飛行機製作所の飛行操縦練習生用中級練習機(天竜9号)完成。10月、日本初の旅客機(天竜10号)完成。(29歳)
1923年 関東大震災発生。天竜7号が通信確保に活躍。この頃から不況のため資金が枯渇(30歳)
1928年 天竜川改修のため飛行場閉鎖
1929年 浜松市三方ヶ原に工場を移転し、浜松飛行機製作所と改称
1930年 格納庫が竜洋西小学校に移管され、雨天体操場として長く利用された
1980年 福永氏死去(88歳)

*天竜4号は欠番

関連サイト:
磐田市立図書館 発見!磐田の著名人   


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エアバス、ボーイング 受注、納入、受注残数 [└資料]

10.png

*数字は2014年8月末現在のものです

 

9.png

*数字は2014年9月末現在のものです

 

2014/10/5追記:データ更新しました。

A318は受注残0なのですが今のところ生産終了のアナウンス確認できず。

Wikiでは2011年のデリバリーで止まっています。

資料は本家本元からいただきました。 m(_ _)m

エアバス ボーイング    


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米国にエアバスの工場 [├雑談]

エアバスの7月2日のプレスリリース によりますと、

米国アラバマ州にエアバスA320ファミリー(A319、A320、A321)の最終組立工場を建設するのだそうです。

2013年夏に工場建設開始、2015年最終組立開始、2016年初号機の引き渡しの計画で、

2018年までに年間40機から50機の生産を目指すとしています。

エアバスのCEOによりますと、「米国は単通路型機の世界最大の市場であり、今後20年間で4,600機の需要があるとされている。米国に最終組立工場を建設することで我々は顧客のより身近でそのニーズに対応することができる」だそうです。

アラバマ州知事もこの工場建設が1,000人の雇用創出に繋がると大歓迎。

 

中国の天津には既にA320の最終組み立て工場があって、2009年からデリバリーが始まっています。

エアバスA320シリーズは受注が絶好調で、今年6月末の数字ですが、

3,348機の受注残を抱えており、そのうちアジア・太平洋地域が38%、北米が26%を占めています。

「巨大市場で直接生産」ということなのでしょうね。

 

ところでA320と言えば、エンジン換装型のA320neo が2016年デリバリー予定です。

一方のボーイングもライバル機となるB737の次世代機、B737 MAX が2017年デリバリー予定です。

今後も永くライバル関係になるであろうA320とB737。

メーカー同士の競争という観点で見ると、敵を自陣に引きこんで大丈夫なの??

とボーイングファンのオイラは他人事ながら考えてしまいます。

国家間のスケールで見れば、互いにメリット・デメリットいろいろあるり、

「相手を利用してやれ」とお互いに思っているのでしょうが。どうなるんでしょうか。


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とり日記 [■ブログ]

車をぶつけました (;´Д⊂)

自宅の駐車場に入れようとしてやってしまったとです。

公道からバックで入れるのですが、

ハンドルを切るタイミングが悪くて、車がいつものラインより左に寄ってしまいました。

車体左側はレンガ作りの花壇までほんの10cmほど。

(おお、ギリギリだ~)

とか思いながら、その数秒後に思いっきり頭を左に振るようにハンドルを切ってしまいました。

「がさっ」という音と共に車は停止。Σ(゚Д゚;)

バンパーが外れかけてしまいました。あと、牽引用フックのフタも取れかけました。

ショックのあまりそのまま自宅へ。

次の日になってもやっぱり壊れたままでした。

近くの中古パーツを取り寄せて直してくれるお店へ。

 

社長曰く、最近の車は軽量化のため、バンパーをボルト止めする箇所が非常に限られているのだそうです。

そしてオイラの車はバンパーをボルト止めする部分がぶっちぎれており、

このままでは車止め等に引っ掛けた時、一気にいってしまう危険があり、そっくり交換するより仕方なし。とのことでした。

新品だと工賃込で6万弱なのですが、程度の良い中古パーツを見つけてくれて、全部で4万ちょいで済みました。

 

それにしても。。。

ミラーでギリギリだとちゃんと見ていたのに、何やってんだか…

トシなのかしらん。_| ̄|○ il||li

他の車にぶつけなかっただけよかったです。

高くつきますので皆様もどうぞお気を付けくださいませ。

 

おわし。


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ボーイング旅客機 年別デリバリー数  [└資料]

無題1.png

無題2.png

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*備考
生産終了:DC-8

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*備考
生産終了:B727,DC-9,DC-10
B737 ターボファンに換装した第二世代登場(1984)
B747-400 デリバリー開始(1989)

無題5.png
*備考
生産終了:B707,MD-80
B737NG 初飛行(1997)

無題6.png
*備考
生産終了:B717,B757,MD-11,MD-90

無題7.png
*備考
B747-8 デリバリー開始(2012)
数字は2013年末現在

無題9.png

無題8.png

2016/10/16追記:データ更新しました。数字は全てボーイング公式サイト 2016/10/16現在のものです。

エアバス機のこういう資料があれば比較したら面白そうなんですけども。。。


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