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木更津飛行場 [├空港]

   2012年7月訪問、2017/8/21:更新  


無題3.png
1947年2月当時の写真(USA M50 66) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

無題4.png SkyVector.com

陸上自衛隊木更津駐屯地にある「木更津飛行場」。

元々は旧海軍の飛行場として埋め立てて建設されたもので、末期には初の国産ジェット機橘花が飛んだ場所でもあります。

現在は敷地を対角線に走る滑走路1本の飛行場なのですが、

海軍当時は1,650m、1,500m、1,200mの3本の滑走路を有しており、

現在でもうっすらと滑走路、ターニングパッドの跡が残っています。

南南西~北北東の滑走路跡は、1970年代になってから一部舗装して使用しているようです。

■「日本海軍航空史」(終戦時)では、当航空基地の滑走路について、
1,500mx70m(アスファルト)、1,650mx80m(アスファルト)、1,200mx80m(アスファルト)とありました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
地名:木更津 建設年: 飛行場長x幅 米:1650x80 1500x80 1200x80 主要機隊数:中型2.0 小型6.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住、倉庫、工場燃料、爆弾等 居w 兵舎14.183平米分散兵舎2 100平米 指揮所、電信所、爆弾庫、燃料庫、倉庫、工業場 雷調8本同格納庫72本 掩体:小型有蓋10 小型無蓋19 中型無蓋36 其ノ他記事:燃料置場 土地2534坪 格2548圓 揮発油庫土地33坪 價33圓

■また、同じく防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」でも、当航空基地について、
1,000x100  1,200x100  1,200x100  90x100  800x100  と5本の滑走路について、記されていました。

D20_0119.jpg

滑走路北側から撮ったつもりの写真。

残念ながら滑走路視認できず。。。


      千葉県・木更津飛行場     
(そのスジでは有名ですが)グーグルの2004年データで見ると、飛行場敷地内にANAジャンボが飛んでます(o ̄∇ ̄o)

木更津飛行場 データ
設置管理者:旧海軍→防衛省
4レター:RJTK
空港種別:陸上飛行場
所在地:千葉県木更津市吾妻地先
座 標:N35°23′54″E139°54′36″
標 高:3m
滑走路:海軍当時については諸説あり(上記参照)
現在:1,830m×45m
磁方位:02/20
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1936年04月 開隊
1945年08月 07日、 国産初ジェット機「橘花」テスト飛行
      09月 米軍、木更津進駐

関連サイト:
Wiki/木更津駐屯地   
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」


787デリバリー1周年 [├雑談]

去年の9月25日、ボーイングとANAは787引き渡しの書類に調印。

787初号機のデリバリーを行いました。

26日にはエバレット工場で式典が行われ、27日に現地を離陸、28日に羽田に到着したのでした。

 

2012年8月24日ボーイング発表によりますと、

「既に運航サービスを開始している機体は、777型機など、既存のボーイング機と同様の定時運航率を記録しています。」

とのことです。

実は、2011年11月に量産型1号機(ANA)が着陸の際メインギアが出ず、手動で出して27分遅れで着陸。

というトラブルがありましたが、事故に至るようなトラブルは現在のところ起きていません。

これまでの旅客機とはまるで違うと言っていい位、いろいろな部分がガラリ変りましたが、とりあえず出だしは順調のようですね。

現在のところ運用のほとんどをANAとJALが占めているわけですが、

今後世界中のエアラインが使用するようになってどうなるでしょうか。

 

787デリバリー開始から1年経ったわけですが、オイラの知る限り、9月25日時点での787のデリバリー数は、24機です。

デリバリー開始から1年間の月平均デリバリー数は丁度2機ですね。

内訳は、ANA:14機、JAL:5機、エチオピア航空:1機、ラン航空:1機、エア・インディア:2機、ユナイテッド航空:1機

となっております。

追記:本家ボーイングからデリバリー満一年のニュースリリースが出ました。1年間のデリバリー数は25機だそうです。

 

で、ここからが本題です。

前フリが長いのはオイラの悪いクセ。 m(_ _)m

次の1年でボーイングは何機の787をデリバリーさせるでしょうか?

宜しければコメント欄に予想数をお書きください。

 

一応参考になるかどうか分かりませんが、本家ボーイング発表の月別デリバリー数はこんな感じです。

2011年は9月から12月まで順に、それぞれ 1,1,0,1機。

同様に2012年は1月から8月まで順に、 2,0,3,3,0,3,1,4機  となっております。

徐々にではありますが、デリバリー数は増えてますね。

8月末の時点で合計19機。非公式ですが、今月はANAとJALが更に1機ずつ受け取る予定になっているようで、

もしかすると今月のデリバリー数は7機とか8機とかになるかもしれません。

ボーイングは787をできるだけ早く月産10機体勢に持って行きたい。としています。

 

さて、787は次の1年間で何機デリバリーされますか。

皆様の予想をお待ちしております m(_ _)m

 

追記:オイラの予想を書いておきます。

オイラは月産平均7になると予想します。で、合計84機になるかと思いきや、

製造部門のチャーリーのミスにより1機減ってしまい、83機。 83機でFA。


根形(第二木更津)飛行場候補地 [├場所]

  2012年7月 訪問 

無題4.png

2016/9/19追記:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)の中で、

当飛行場について「候補地」と出ていました。

以下同資料にある「根形飛行場」についての記載を記します。

位置 君津郡根形村 
基地名 根形
最寄駅ヨリノ方位 房総西線木更津駅 E9
飛行場 長×幅 米 1500x1200
主要機 小型
主任務 退避場
其ノ他記事 候補地
丁字型二計画耕作地大部分ニシテ一部林野ナリ付近二工事資材ナク輸送モ亦不便ナリ本地ハ富津候補地ノ代替地ナリ

となっておりました。

一番最後の「富津候補地ノ代替地ナリ」というのが非常に気になります。

富津が飛行場建設の候補地になっていたんですね。

(当資料には富津についての記載はありませんでした)

 

当「根形飛行場」については長いことハッキリした情報がなく、

「候補、未成」という資料と、「八月末ほぼ完成」という資料があります。

飛行場名になっている「根形」ですが、当時この周辺は根形村であり(1955年に廃止)、

上の地図でも「根形保育園」、「根形公民館」にその地名が残っています。

1947年当時の写真で見ると、この周辺は当時から広大な平地でした。

現在でも、途中で屈曲しているのですが、長さ約8km、幅約1kmの広大な田んぼが広がっていますから、

飛行場の広さとしては十分過ぎるほどです。

D20_0118.jpg

真っ直ぐの道路脇には広大な田んぼが広がってました。

 

第二木更津(根形)飛行場跡地:map 


      千葉県・根形(第二木更津)飛行場候補地      

根形(第二木更津)飛行場候補地 データ

設置管理者:日立社
空港種別:陸上飛行場
所在地:千葉県‎袖ケ浦市‎三ツ作‎?
座 標:N35°24′35″E139°59′53″?
滑走路/滑走帯:600m×50m、1,500m×1,200m等諸説あり
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

関連サイト:
国土地理院 1947年2月当時の写真(USA M50 68)  (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック) 
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とり日記 [■ブログ]

オイラの会社でポット型の浄水器を扱うようになりました。

1966年、世界で最初にポット型浄水器を発売したのはドイツのブリタ。

世界ナンバーワンのシェアを誇り、お客様に話してピンとこなくても、

「ブリタ」と言えば「あー、あの!」と、悔しい程すぐ通じます。

オイラはこういうタイプの浄水器があることすらだったのですが、

最近は蛇口の形状がオシャレなお宅が多くて、蛇口直結式浄水器の取り付けが出来ないご家庭を中心に、

家庭用浄水器の半分はポット式なのだそうです。

 

弊社の製品特徴は、浄水と同時に硬度調節ができること。

この硬度調整という特徴をセールスポイントにすべく、先日偉い方にお越し頂いて勉強会が行われました。

まずは硬水と軟水の飲み比べ。

…。

全然分からない。

コントレックスなど硬度1,500近い水は飲んだらすぐ分かるらしいけど、弊社の製品はそこまで硬度が高くない。

同僚のAさんはコーヒーにうるさい人で、

この人は少しすすっただけで、「これは硬水」とか「あ、これは軟水」とかすぐ分かる。

「ある程度まとまった量を呑むと喉越しで違いがわかりますよ」

と言われ、両方の水をごくごく。

…。

全然分からない。

Aさん以外の人は、かろうじて当たる程度だったり全然分からない人ばかりでちょっと安心したけれど。

こういう感覚はある方だと思ってたのでちょっとガッカリ。

そんなオイラの隣りでこれ見よがしに「あ、これは軟水」とかまだ言ってるAさん。

Aさんもう分かったから。

 

ところがそれぞれの水でコーヒーを淹れたら、その違いは歴然。

軟水コーヒーがまろやかなのに対し、硬水コーヒーは香りも味もカキッとしている。

水のままだと全然分からなかったオイラでも、これなら少しすすっただけで分かる。

Aさんは「タンニン成分が~」とかもー語る語る。

Aさんもう分かったから。

 

うーむ、しかしこんなに違うものなのか。

コーヒーは好みで硬水軟水使い分ければいいけれど、お茶は軟水がいいらしい。

「リラックス時は軟水だけど、今はリフレッシュしたいから硬水で淹れたコーヒーが飲みたいね」

今度機会があったらオイラもAさんみたいに通ぶってみよう。

 

おわし。


伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼、伊藤飛行場)跡地 [├空港]

  2012年7月 訪問 

D20_0079.jpg

ここはマリオ・デ・ニ−ロさん に教えて頂いた場所です。 ありがとうございました。m(_ _)m

千葉県‎習志野市‎袖ケ浦‎5丁目‎16にある「袖ヶ浦第二児童遊園」。

ここに「旧伊藤飛行機研究所 滑走路跡」の説明版が設置されています。

旧伊藤飛行機研究所 滑走路跡(全文)
 伊藤飛行機研究所は、大正七年四月一日、鷺沼三丁目の旧千葉街道沿いに、伊藤音次郎氏によって開設されました。伊藤氏は、明治四十五年日本初の民間飛行機練習所を稲毛海岸に開いた奈良原男爵の弟子で、大正四年に独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設しましたが、大正六年九月の台風と高潮で施設が壊滅したため、翌年鷺沼海岸に再開しました。当時この辺は遠浅の海で、潮が引いたあとの干潟は格好の滑走路となり、この干潟を利用して約百五十名の飛行士が養成されました。昭和六年、研究所は飛行機製作部門の伊藤飛行機製作所、飛行士養成部門の東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれ、昭和二十年八月、第二次世界大戦終戦とともにすべて解散されました。大正四年の創設以来、製作された飛行機は五十四機、グライダーは十五機種二百余機でした。平成十八年三月 習志野市教育委員会

(説明版に出てくる「鷺沼三丁目」はここから200mほど北側にあります)

 

ここからの話は前記事「稲毛飛行場跡地」 の続きです。

奈良原氏が白戸操縦士以外に更にもう一人操縦士を育てようと考え、

練習場所として開設したのが1912年開場の稲毛飛行場でした。

この飛行場で練習を始めたのが、白戸操縦士、そして「もう一人」の人物、伊藤音次郎でした。

1913年、前記事の通り、奈良原は金策に行き詰まり(男爵を継がせるべく親戚からの強い反対もあったらしい)、

一時航空界から手を引きます。

そのため伊藤音次郎は1915年、独立して稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設します。

稲毛飛行場をそのまま使用しつつ機体設計、操縦士養成を行っていました。

余談ですが奈良原の一番弟子白戸はどうしたかといいますと、、

1916年12月に稲毛を離れ、現在の千葉市寒川新宿に白戸飛行機練習所を開設し、専ら飛行士の養成に努めました。

ところが1923年、2人の愛弟子が飛行機事故で相次いで命を落してしまいます。

白戸はその年のうちに航空界から引退してしまったのでした。

 

伊藤研究所創設から2年後の1917年9月、伊藤飛行機研究所と稲毛飛行場は台風と高潮で壊滅してしまいます。

そのため伊藤は、稲毛海岸から数キロ北側に位置する鷺沼海岸に新たな飛行場(津田沼飛行場)と研究所を設けることにしたのでした。

結局、伊藤の恩師奈良原が作った稲毛飛行場は僅か5年で壊滅してしまったということになります。

鷺沼海岸に居を移して活動を再開した伊藤でしたが、

優れた機体を次々製作し、懸賞飛行に優勝したり、多数の操縦士を養成しました。

製作した飛行機は50種以上、軍払い下げ機の改造27機種、滑空機の製作は15機種200機以上。

操縦訓練では200人近い人材を育てました。

奈良原の稲毛飛行場とその弟子伊藤の鷺沼飛行場、それぞれの飛行場を比較した場合、

伊藤が鷺沼海岸に居を移してからの方が活動の期間が長く、規模も大きいと思うのですが、

現在それぞれの跡地の様子はまったく正反対です。

伊藤の飛行場跡には2006年に習志野市の小さな説明版が設けられただけなのと対照的に、

伊藤は恩師が開設した飛行場跡地に非常に大きな碑を建て、貴重な松の木を移しています。

 

2014/8/3追記:アギラさんから情報頂きました。説明版にも出てくる東亜飛行場についてです。「習志野市史第4巻資料編(ⅲ)には東亞航空興業株式會社の1940年7月の広告がありました。そこには本社は東京市小石川區大塚上町20番地となっていました。(大塚上町は現在の文京区大塚5丁目or6丁目)関連はありませんが国産初の飛行機を明治時代に作った林田商会の場所まで(新宿区西五軒町12-10)歩いても20分位です。営業所と東亞航空技術員養成所は津田沼町鷺沼127番地となっていて操縦や整備だけでなく中国語も教えていたようです。 」

また、こんな情報も頂きました。「尚、奇しくも千葉毎日新聞1931年5月23日の記事にはオートジャイロの記事もありました。「滑走路を要さない直昇飛行機製作 奈良原男爵発明のオートヂャイロン器を津田沼伊藤民間飛行場で 津田沼町伊藤飛行機製作所にて目下奈良原男爵の発明に依る直昇飛行機 組立を急いで居るが、右はオートヂャイロンと言って従来の如く大面積の滑走場に 滑走する必要なく機上翼上に十字形の相互に内面へ回転する装置のプロペラが備え付けられエンヂンを掛けタランクをふみローに入れるとエーヤ圧搾にて回転し直ちに機は直昇離陸するのであって、目下イスパノ三百馬力機に取付中であるが又た同機には是れも同男爵の妙案なる重心安定器を機体中心へ取付けてゐるので機体の動揺等を防ぎ昇降等にも非常に便よく是に依り墜落も防止されるとのことでおそくとも七月初めには試運転の初飛行を行う由である。」

更に「民間飛行學校練習所其他」{航空年鑑昭和六年)の中で、当飛行場に関して、「日本軽飛行機倶樂部(千葉縣千葉郡津田沼町 伊藤飛行場)」として登場しているそうです。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m

 

伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼飛行場)跡地:map 


      千葉県・伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼飛行場)跡地      

伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼飛行場) データ
設置管理者:伊藤飛行機研究所
所在地:千葉県‎習志野市‎袖ケ浦‎5丁目‎16
座 標:N35°40′21″E140°01′55″(の辺りと思われる)

沿革
1912年     奈良原氏、稲毛海岸に民間飛行機練習所を開く
1915年01月 伊藤氏、奈良原氏から独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設
1917年09月 伊藤飛行機研究所、台風と高潮で壊滅
1918年04月 伊藤飛行機研究所、鷺沼海岸にて再開(津田沼飛行場)
1931年     伊藤飛行機製作所、東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれる
1945年08月 終戦と共に解散

関連サイト:
Wiki/伊藤音次郎   
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千葉県・稲毛民間航空記念館 [├場所]

  2012年7月 訪問 

D20_0099.jpg

前記事の「稲岸公園」の前の道を海岸に向かって真っ直ぐ進むと、稲毛海浜公園の交差点に出ます。

そのまま公園内を真っ直ぐ進むと、右手に「稲毛民間航空記念館」があります。

複葉機(鳳号)が復元されたのを機に建設されたもので、稲毛飛行場の歴史を後世に残すべく、

現在では飛行機の歴史や大空への夢を育むため、展示施設の管理や紙飛行機工作教室などのイベントを行っています。

入場無料。

 

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館内に奈良原式4号機「鳳」号が展示されています。

復元機で実際に飛行できる機体です。

 

稲毛民間航空記念館:map 


      千葉県・稲毛民間航空記念館      

稲毛民間航空記念館 データ

所在地:千葉県千葉市美浜区高浜7丁目2番2号
開館時間:9:00~17:00

関連サイト:
公式サイト    
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稲毛飛行場跡地 [├空港]

  2012年7月 訪問 

千葉県‎千葉市‎美浜区にある稲岸公園。

現在ここは海岸線から約2.4km内陸に入った場所なのですが、

この周辺はかつて海岸線で、干潮時は広大な干潟が広がっていました。

そしてこの干潟が「稲毛飛行場」として利用されていました。

日本の航空界草創期の記述に必ず登場する人物、奈良原三次縁の飛行場です。

 

奈良原三次(1877~1944)は1908年東京帝国大学工学部造兵科卒業。

海軍少技士となり横須賀海軍工廠造兵部に勤務するかたわら、木村俊吉理学博士の指導で飛行機の研究をしました。

そして新編成の臨時軍用気球研究会に任命。

1910年10月、自ら設計した奈良原式1号機を自費で完成させ、

発動機はフランス製のノーム50馬力を付ける予定で注文したのですが、

どこで間違ったのか、到着したのはフランス製のアンザニ―25馬力だったのでした。

予定の半分の馬力では当然飛行に足りず、戸山ヶ原(東京)での試験飛行は地上滑走で終わりました。

今なら密林さんにクレームのメールを入れればすぐに正しい注文品を送ってくれるのでしょうが、

このエンジン手配の不備は歴史な意味を持つこととなりました。

史実では、

・1910年12月 東京の代々木練兵場にて、外国機による国内初飛行に成功
・1911年05月 奈良原氏製作の国産機による初飛行に成功

となっています。

もう少し細かく見てみますと、軍主導で(この場合国の主導と言い換えてもよいのかもしれませんが)、

日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学び、飛行機を購入して持ち帰り、飛行に成功したのが、1910年12月。

それから遅れる事5ヵ月で奈良原が初飛行に成功した。ということになっています。

ところが実は、奈良原が自費で設計、製作した奈良原式一号機の完成は、外国機による国内初飛行の半年前だったのです。

もし発注通りのエンジンが届いていたとしたら、

「外国機による国内初飛行」と、「国産機による国内初飛行」の順番が入れ替わっていたのかもしれません。

 

それはともかく、一号機が失敗に終わった翌年1911年の春には奈良原式二号機が完成しました。

この第二号機を同年5月に開設したばかりの陸軍所沢飛行場に持ち込み、練習を行いました。

そして自らの操縦により高度4m距離60mの飛行に成功。

この時奈良原は軍籍を離脱しており、機体も自費製作であったため、これが

「1911年05月 国産民間機による初飛行」として史実に記されることになりました。

 

次に稲毛海岸が飛行場になったいきさつについてです。

自作機の飛行に成功した奈良原は更に飛行機の製作を重ねる一方、

自身は親戚からの反対で操縦桿を握ることができくなってしまったため、

白戸栄之助を操縦士として養成します。

そして1912年4月、川崎競馬場にて奈良原式4号機「鳳」号による民間初の有料公開飛行等に成功、

同年5月には青山練兵場(現神宮外苑)での公開飛行にも成功し、白戸以外にも操縦士を養成する必要性を感じます。

この時まで練習場所は当時唯一の飛行場であった陸軍の所沢飛行場の一隅を借りていたのですが、借り物では遠慮があります。

そのため金のかからない、いつでも自由に使える民間の飛行場を作ろう。ということになりました。

目を付けたのは、奈良原がよく鴨猟に行っていた、東京湾の最奥に当たる浦安から船橋、千葉方面の内湾沿岸でした。

この場所は遠浅で汐が引くと、2,3千メートルも沖まで一面の干潟となり、砂がしまって堅く、

荷馬車が海の中を通っている状態で、汐の満干の不便さえ忍べば、金もかからず、ほとんど無制限に広いし、

練習には申し分ないことから、同海岸の調査が進められることになりました。

当時の稲毛海岸は東京人の行楽地として知られており海の状態もよく、

東京にも近く、鉄道の便も良い上に、大きな旅館があって、

この旅館の庭先の海岸寄りにちょうど格納庫が建てられるくらいの空き地があり、

旅館の主人が格納庫を建ててくれるということで話はトントン拍子に進み、ここに稲毛飛行場開設の運びとなったのでした。

こうして5月には稲毛飛行場にて、奈良原の一番弟子白戸、二番弟子伊藤音次郎の練習が開始されたのでした。

 

本拠地も決まり、全国に巡回飛行をすることになり、

大正元年、中国、九州、四国を巡回飛行、大正二年には、水戸と金沢で飛行、

その後朝鮮に渡り、京城と平壌で飛び、続いて北陸から北海道に渡り、帰りは青森、仙台、宇都宮と来ました。

こうして稲毛海岸の干潟飛行場を本拠地として全国で巡回飛行会を催したため、

「稲毛が民間航空発祥の地である」といわれる所以となっています。

 

当時民間でこれだけのことをしたのですが、財政的にはやはり相当厳しいものがあり、

借金のため発動機が差し押さえられて飛べなくなり、一時東京に引き上げたとか、

五号機を代金未払いから取り上げられてしまったので、既にボロボロになった四号機を引き出して使用したとか、

記録からは相当苦労したことが読み取れます。

四号機は「鳳号」と名付けられたのですが、これは出資者の贔屓にしていた横綱「鳳」から命名したのだそうで、

このへんもスポンサーへの気配りなのかもしれません。

 

こうして金銭面で苦労しながらやっていたのですが、とうとう身動きがとれなくなってしまい、

奈良原は1913年末に他の事業を起こすべく一旦航空界から引退します。

そして時は流れ1930年に津田沼日本軽飛行機倶楽部の会長に就任し、銀紙飛行機献納運動、グライダーの普及発達に尽力し、

よく後進の指導・育成に努力するなど、生涯を航空の発展に捧げたのでした。

 

奈良原によって作られた「民間航空発祥の地・稲毛飛行場」は、奈良原が1913年に一時引退した後も使用されたのですが、

1917年6月の台風で壊滅してしまいます。

このことについてはまた後日別記事で。

 

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「民間航空発祥之地」碑

「一九一二年五月奈良原三次氏この海浜に初めて練習飛行場を創設教官白戸栄之助氏により飛行士の養成をはじめた
この地がわが民間航空発祥の地である 一九七一年七月 伊藤音次郎記」と記されています。

 

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碑とキティ―ホークの松

 

稲毛飛行場跡地:map 


      千葉県・稲毛飛行場跡地      

稲毛飛行場 データ

所在地:千葉県‎千葉市‎美浜区‎稲毛海岸‎4丁目‎15‎
座 標:N35°38′03″E140°04′37″
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1912年05月 飛行場開設
1913年     奈良原一時引退
1917年06月 台風により壊滅

関連サイト:
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船橋飛行場跡地(二代目) [├空港]

  2012年7月 訪問 

船橋二代目.png

前記事の通り、船橋ヘルスセンターに遊覧飛行用の「船橋飛行場(初代)」が造られたのですが、

その後ヘルスセンターの拡張(人工ビーチの新設)と船橋サーキットの新設に伴い、移転しました。

上の地図にある通り、初代飛行場の離陸/着陸コースは隣接する競馬場の直上であり、

競馬場側からの苦情もあったのだそうです ^^;

初代は転圧式の簡易なものでしたが、移転した滑走路は舗装された700mの立派なものとなりました。

尚、「初代」とか「二代目」というのは当記事内だけの便宜的な名称ですのでご了承くださいませ。

 

船橋ヘルスセンターは最盛期には年間来場者数400万人を誇りました。

遊園地・テーマパーク年間来場者数で見ると、やはりというか、千葉県の某テーマパークが別格なのですが、

2009年度の数字では、横浜・八景島シーパラが429万人で6位にランクインしていますから、

ヘルスセンターは現在でも余裕でベスト10内に入るんじゃないでしょうか。

ところがその後、 1969年に起きたセスナ墜落事故(操縦者は死亡、乗客だったカップルは重傷だったらしい)が引き金となり

船橋飛行場は閉鎖されてしまいます。

せっかく新設した舗装滑走路でしたが、僅か4年しか使用しなかったことになります。

遊覧飛行の運航を担当していたのは中央航空だったのですが、事故発生と同じ年に開設された茨城県の「竜ヶ崎飛行場」に

移転しました。

船橋ヘルスセンターもその後衰退の一途をたどり、地盤沈下防止のため温泉の汲み上げが禁止されたことが致命的となり、

1977年に22年の歴史を閉じました。

 

D20_0075.jpg

A地点。ららぽーと屋上駐車場から。

車の走る道路、そしてIKEAの敷地にかかるように滑走路が伸びていたはずです。 

滑走路はららぽーとのすぐ手前まで来ていました。

今となっては考えられない場所に滑走路があったのですね。

 

船橋飛行場跡地(二代目):map 


      千葉県・船橋飛行場跡地(二代目)      

船橋飛行場(二代目) データ

所在地:千葉県‎船橋市‎浜町‎2丁目‎
座 標:N35°40′51″E139°59′28″
滑走路:700m
磁方位:18/36
*座標、滑走路長、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1965年07月 船橋飛行場(二代目)完成
1969年     墜落事故により飛行場閉鎖。中央航空は竜ヶ崎飛行場に移転。飛行場跡地はゴルフ場として利用される
1981年04月 ららぽーと開業
1993年07月 ザウス開業
2002年09月 ザウス閉鎖
2006年04月 イケヤ開業

関連サイト:
Wiki/船橋飛行場   
国土地理院 1966年8月当時の写真(MKT664 C9 13) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)
  (初代の滑走路が跡形もなくなり、二代目が写ってます)  
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船橋飛行場跡地(初代) [├空港]

  2012年7月 訪問 

船橋初代.png

千葉県‎船橋市‎のららぽーと。

かつてここに「船橋飛行場(初代)」がありました。

ここには「船橋ヘルスセンター」という一大レジャー施設があり、

この施設内に遊覧飛行用の転圧滑走路が設けられました。

10分間1人1,000円で遊覧飛行が行われていたのだそうです。

 

D20_0072.jpg

A地点。

この道路に沿って左側に滑走路が伸びていたはずです。

 

船橋飛行場跡地(初代):map 


      千葉県・船橋飛行場跡地(初代)      

船橋飛行場(初代) データ

所在地:千葉県‎船橋市‎浜町‎2丁目‎
座 標:N35°41′08″E139°59′23″
滑走路:530m?
磁方位:11/29
*座標、滑走路長、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1955年 11月 船橋ヘルスセンター開業
1958年 滑走路完成
1965年 07月 滑走路移転

関連サイト:
Wiki/船橋飛行場   
国土地理院 1963年6月当時の写真(MKT636 C8 43) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)  
ブログ内関連記事       


習志野離着陸場 [├空港]

   2012年7月 訪問 

無題4.png
1947年11月当時の写真(USA M636-A-No2 222)(「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


千葉県‎船橋市‎習志野台にある「習志野演習場」。

第一空挺団の降下訓練が行われる場所です。

元々この場所は旧陸軍時代から「習志野演習場」として使用されており、「習志野陸軍演習場不時着陸場」がありました。

現在でもここに「習志野離着陸場」があるのですが、固定翼機は使用できないのだそうです。

2017/3/27追記:水路部資料から作図、記事修正しました。

先頭の1947年当時の航空写真はそれぞれ、

A:「習志野離着陸場」 B:「滑走路跡?」 C:「習志野陸軍演習場不時着陸場跡地」 です。

写真中央で一番目立っている長方形のものは、射撃場です。

Bについては、以前アギラさんから頂いたコメントで、習志野演習場関係者の方からのお話として、

昭和40年位まで縦と横の短い滑走路があり、米軍の小型機もいた時期があったのだそうで、

うっすら映っているBの部分がその「縦の滑走路」なのではないかと思いました。

この滑走路らしきもの、ターニングパッドも含めて450mしかなくて、本当に短いです。

詳しくはコメント欄 (2014-08-03 11:06)以降をご覧くださいませ。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m

Cについては、防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」

の地図に不時着陸場エリアとして明示されていますので、間違いないと思います。

D20_0069.jpg

「習志野離着陸場」北東側から。

この先に滑走路が伸びているはずなのですが…とほほ。


      千葉県・習志野離着陸場      

滑走路西側にヘリポートが隣接しています。

習志野離着陸場 データ
設置管理者:旧陸軍→防衛省
所在地:千葉県‎船橋市‎習志野台
座 標:N35°42′51″E140°03′53″
滑走路:400m×20m(転圧)
着陸帯:600m×300m(旧陸軍当時)
磁方位:06/24
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

関連サイト:
Wiki/習志野演習場   
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」