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萬世陸軍飛行場跡地 [├空港]

  2011年6月 訪問 

無題5.png

前記事の「知覧飛行場」の南西約16km、鹿児島県‎南さつま市‎の海岸沿いに知覧飛行場の補助基地が建設されました。

「萬世(ばんせい)陸軍飛行場」です。

「補助基地」であったこと、そして約4か月という短い期間しか使われず、

詳しい資料が残っていないため、これまで「幻の特攻基地」と呼ばれてきました。

当飛行場が「幻」、「補助基地」なのに対し、

同じ陸軍系の知覧があまりにも有名になったため、

当基地から出撃した特攻隊員のご遺族の中にも、「知覧から出撃した」と思い込む方がおられるのだそうです。

「戦跡を歩く」という本に書かれていたのですが、

子犬を抱く少年兵を中心に特攻隊員が並ぶ「子犬を抱いた少年飛行兵」という有名な写真も、

知覧基地で撮影されたものだとされていたのですが、実際には当基地で撮影されたものなのだそうです。

この子犬を抱いた少年兵の実兄が群馬県桐生市でご健在であり、

この写真を撮った時の状況についても記されていました。

この本によれば、この子犬は部隊の将校が拾って可愛がっていた犬で、

抱いている隊員は当時17歳で、昭和20年5月27日に当基地から出撃した第72振武隊員。 

出撃前日に撮影されたものなのだそうです。

 

2017/3/19追記:防衛研究所収蔵「飛行場記録「上別府・万世・知覧」(陸空-本土周辺-115)」の中で、

当飛行場についての詳細な記述がありましたので、引用させて頂きます。

判決 小型飛行機の使用に適す
飛行地区
 滑走地区 四〇〇x一、三〇〇米(約十五糎表土敷設転圧)
 舗装路 なし
 土質 海岸砂丘を地均したる後約十五糎粘土敷設
 地表面の状況 表面張芝したるも未だ地耐力十分ならず
 周辺障碍有無 東側砂丘は離着陸特支障大なり

 誘導路 なし(面式)
 宿営 三角兵舎地方側の建築せるものを借用二十棟(千名収容)
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 兵舎地区に張線しあるも飛行場内にはなし
其の他
 給水 一般に井戸を利用しあるも水質悪く水量不足なり
風向 北西 北西の場合は海岸より砂塵飛揚し為に機関の故障を発生すること多し

 

現在滑走路跡には「吹上海浜公園」が整備されており、滑走路跡の東側に「万世特攻平和祈念館」があります。

上の図は祈念館の資料を参考にして作りましたが、手書きで書き写したのでかなり大雑把です。

祈念館の資料内でも滑走路の位置関係は米軍撮影の極めて見分けのつきにくい写真を元に確定しており、

滑走路の規模も「1,300x400m」と記した資料があるかと思えば、「800x400m」と記しているものもありました。

詳しい資料は終戦後に焼却処分されたため、不明な部分が多いようです。

おおよそこんな。ということでご了承くださいませ。

 

D20_0040.jpg

飛行場の営門が残っていました。

「当時軍の機密は厳重を極め、この営門には武装した衛兵が二十四時間立哨の任務についておりました。飛行場への出入りはすべてこの門からであり、万世基地から沖縄戦に出撃、突入した若き特攻隊員も、ここを通ったのであります。」

と説明されていました。

ここから121機が特攻機として飛び立っていきました。

 

D20_0047.jpg

「万世特攻平和祈念館」。

12月31日、1月1日を除く毎日 9~17時まで。大人300円。

画面右端に碑文等がありました。

(全文)ここは、我が国三大砂丘の一つに数えられる吹上浜の南端に位置し、太平洋戦争の戦局が急を告げつつあった昭和十八年の夏から十九年の末にかけて本土防衛、沖縄決戦の軍航空基地として建設された「萬世陸軍飛行場」の一角にあたる大戦の思い出の地であります。昭和二十年三月から燃料を集積、三月末から飛行第六六戦隊が配備され、更に同年四月初第六航空軍の作戦計画によって特別攻撃隊及びその掩護と防空の飛行第五五戦隊も配備され特攻基地となり、沖縄作戦の最も熾烈を極めた七月下旬までに、ここ万世基地から飛行第六六戦隊及び特攻振武隊の諸隊、これを掩護する飛行第五五戦隊の若き勇士が祖国護持の礎たらんと勇躍沖縄方面へ出撃し、南海の大空に散華したのであります。終戦後幾星霜、今では当時の面影として、営門と水槽を残すのみとなりましたが、ここに立って松風や潮騒を耳にしながら「祖国のため」を合言葉に、征きて還らざる壮途についた紅顔の英姿をしのびつつ平和へ誓いを新たにしたいものです。

(全文)昭和十九年 太平洋戦争の戦局はとみに悪化し、すでに決定的段階を迎えんとしていた。ここ加世田市吹上浜の地に、戦勢転換の神機を期すべく地元民学徒ら軍民一致の協力によって、本土防衛沖縄決戦の基地萬世飛行場が建設された。昭和二十年三月二十八日より終戦に至るまで、陸軍特別攻撃隊振武隊の諸隊、飛行第六十六戦隊、飛行第五十五戦隊の若き勇士たちは、祖国護持の礎たらんと、この地より雲表の彼方へと飛び立った。一機また一機と。征きて帰らざる者あまた。或は空中に散華。或は自爆。壮絶にして悲絶。その殉国の至誠は鬼神もこれに哭するであろう。終戦以来幾星霜、ここに祖国は、その輝かしき復興をとげた。われら生き残りたる者と心ある人々は、英霊の魂魄を鎮め、その偉勲を讃えんがために、ここにこれを建立する。昭和四十七年五月二十九日

 

D20_0043.jpg

 

D20_0052.jpg

吹上海浜公園内。

実際の滑走路からは外れているのですが、滑走路っぽく見える場所。

海沿いの万世飛行場は元々砂地で地盤が脆いため、衝撃に強い旧型の固定式脚を付けた戦闘機が多く集められました。

固定式脚の機体が全体の93%を占めていたのだそうです。

 

萬世陸軍飛行場:map   


      鹿児島県・萬世陸軍飛行場跡地     
ほとんど人力で建設しました。滑走路はセメントがなかったため、周囲の山からスイセイ岩を運び敷き詰めて造ったのだそうです

萬世陸軍飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県‎南さつま市‎加世田高橋‎
座 標:N31°26′23″E130°17′20″
滑走路:1,300m×400m
磁方位:16/34
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1942年 現地調査(当初は大刀洗飛行学校の分校を建設する予定だった)
1943年 01月 83戸が飛行場建設のため移住、農地買収
      07月 着工
1944年 末頃 ほぼ完成
1945年 02月 沖縄前進基地の燃料として使用するため、知覧から燃料(ドラム缶5,000本)の半分を移す。
      03月 飛行第66戦隊配備。空襲を受け、兵舎大破。
      04月02日 特攻振武隊配備、
      06日 特攻隊第一回出撃
      13日 徳之島飛行場が爆撃により使用不能に。当飛行場が前進基地となる。

関連サイト:
鹿児島県観光サイト/万世特攻平和祈念館     
国土地理院 1947年3月当時の写真(USA M103 36) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵「飛行場記録「上別府・万世・知覧」(陸空-本土周辺-115)」 


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コメント 7

いっぷく

固定式脚の機体を使用するにはそれなりの理由があったんですね、
離着陸の地盤を考慮してのこととは。なるほどですね。

by いっぷく (2011-10-12 13:30) 

鹿児島のこういち

去年、米軍の資料の中から万世飛行場の航空写真が見つかり、現地の人からも忘れ去られていた滑走路位置がわかったそうです。同時に枕崎空襲の航空写真も見つかり、低空からの写真に当時の街並みや屋号、看板等が写り、これも位置がはっきりしました。
南日本新聞に写真が掲載されましたが、あんなに低い位置から写真が撮れるとは、もう、地対空の能力は無いも同然だったのでしょう。

by 鹿児島のこういち (2011-10-12 22:43) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■いっぷくさん
オイラも初めて知りました。
様々な事情が考慮されていたんですね。

■鹿児島のこういちさん
>米軍の資料
そんな形で祈念館に展示されていたのが、リンク先の写真でした。
出発前に散々見ていたものだったのでビックリでした^^
by とり (2011-10-14 05:35) 

sak

お仕事させていただいている方に
ここご出身の方がおられて
小さい時、隊員の方の膝に乗っけてもらったりして
遊んでもらったって
その時は小さくて特攻の意味わからなかったけれど
思い出すと涙が出てくるって


by sak (2011-10-15 07:01) 

とり

■sakさん
そんな方がおられるのですか。
悲しい話ですね。
by とり (2011-10-19 06:55) 

Takashi

4ヶ月という期間。
まさに、特攻のために作られた飛行場だと思いました。
by Takashi (2011-10-20 05:25) 

とり

■Takashiさん
お返事が遅くなって申し訳ありません。
コメントありがとうございました。
by とり (2014-02-22 12:42) 

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