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人吉(川村・高原)飛行場跡地 [├空港]

  2011年6月訪問、最終更新日:2017/6/24  


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1947年12月(USA M685 32) (滑走路西端、南側に無蓋掩体壕らしきものが見えます)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

熊本県‎球磨郡広大な高原(たかんばる)台地にあった「人吉(川村・高原)飛行場」。

現在周辺は畑地になっており、滑走路跡は二本の道路に挟まれる形で地割が残っています。

「熊本の戦争遺跡 戦後65年」の中で当飛行場について詳しく扱われていました。

滑走路東端、北へ300mほどの所に木造三角屋根の2棟の格納庫がありましたが、

1945年3月18日に23機の米軍機による2度の空襲で大破炎上し、基礎コンクリートのみになってしまいました。

格納の並びに指揮所もあったのですが、これも爆撃され壊滅してしまいました。

滑走路は厚さ20cmのコンクリート製だったのですが、1955年以降の高度経済成長時に使用されて砂利となり、

球磨人吉の建築物や堤防、橋として再生されたのだそうです。

また、滑走路の東半分の地下5mほどは砂利が取られて低くなっているため、

西側部分が元々の滑走路の地盤の高さなのだそうです。

 

また、「九州の戦争遺跡」によりますと、当飛行場建設当時、この地域の農家が高原台地開拓のため水利組合を作り、

川辺川から灌漑用水を引こうと計画していたのですが、海軍から飛行場の用水路とするように命じられ、

わずか1年間の突貫工事で、現在の六藤発電所放水口の向かい側から航空隊前まで10kmに及ぶ水路を完成させました。

前述の3月18日の米軍機による空襲では、兵員9名、飛行場東隣の集落でも住民4名の死者を出してしまいました。

戦後、飛行場跡は開拓地となり、地元の人々や引揚者が入植しました。

その農地の灌漑用として飛行場の用水路がさらに南に延長されて使用されましたが、

現在も「飛行場用水路」と呼ばれているのだそうです。

 

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:人吉 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:1500x50コンクリート 主要機隊数:飛行機整備小、中型 主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:電信所、各種用6,500平米 掩体:小型有蓋7

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画面左側が滑走路


      熊本県・人吉(川村・高原)飛行場跡地     
養成所だったのですが開設は末期の時期であり、松根油採取のための松の根掘りに多くの時間が割かれ、訓練もままならなかったのだそうです

人吉(川村・高原)飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:熊本県‎球磨郡‎相良村‎柳瀬‎
座 標:N32°13′13″E130°48′33″
滑走路:1,350m×50m
磁方位:09/27
(座標、磁方位はグーグルアースから)

沿革
1942年 海軍飛行場建設計画
1943年 11月測量開始。近隣住民、学徒動員で建設工事
1944年 02月 人吉海軍航空隊として第18連合航空隊編入で発足。練習・整備教育隊に指定。
      乙種予科練を主体とし第1期は整備、第2~9期までは飛行訓練。鹿児島に出水分遣隊配備し独立
1945年 03月1日、第22連合航空隊に編入。実戦部隊の基地として使用。18日、壊滅的な攻撃を受ける
      4月8日、爆撃にも堪え得る地下軍事施設を建設するため、第521設営隊編成。建設が進められる
      5月14日、艦載機16機による空襲。この頃九三式中間練習機による特攻訓練が行われるようになる
      6月1日、整備訓練教育が凍結され本土決戦用地上戦部隊に変更される 
      07月10日、人吉海軍航空隊解隊。人吉航空基地施設と改称。その後は警備部隊と鉾部隊配備。
      08月15日、終戦時海軍特攻隊6名駐留。九三式練習機96機、雷電1機、零戦2機、九六式艦戦19機残存
      1,500メートルの滑走路は戦後しばらく残され、駐留軍の訓練に使用
      その後農用空港への転用が論議されたが結局撤去されて農地に

関連サイト:
錦役場飛行場公式サイト  
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「熊本の戦争遺跡 戦後65年」
「九州の戦争遺跡」


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コメント 8

Takashi

グーグルマップの航空写真を見ましたが、滑走路跡が上手い具合に田畑になっているように見えました。
それより、前記事に引き続き雨すごいですね。道路が川のように見えちゃいました。
by Takashi (2011-11-09 22:29) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■Takashiさん
確かに上手に利用してますね^^
この時は豪雨がなかなか止まなくて、
車が来ないのをいいことに、道路を塞ぐように車を止め、運転席から撮らせていただきました^^;
by とり (2011-11-10 04:52) 

鹿児島のこういち

本当に写真、滑走路がはっきりと写ってますね(^O^)
松根油ですが、ドイツでは燃料として使ってたんでしょうか?たんなる燃料の添加剤だったりして(^^ゞ何か間違えて、ドイツでは燃料として使われてるって情報が日本に伝わったのでは?(^^ゞ
by 鹿児島のこういち (2011-11-12 12:31) 

とり

■鹿児島のこういちさん
>松根油
オイラはまったく知らないんですが、そんな怪しげなものなんですか^^;
by とり (2011-11-14 18:08) 

kaoki

昭和19年4月8日の鹿児島市内空襲で危うく死ぬところでしたが、その後人吉の川辺に疎開。終戦まで高原飛行場をめがけて米軍のグラマンが飛来、川辺に爆音近づいてくると、母はわたしを抱いて防空壕に飛び込んだそです。
集団自衛権は米国のために死ぬこととみたり。
by kaoki (2014-03-25 09:12) 

とり

■kaokiさん いらっしゃいませ
貴重な体験をお聞かせ下さりありがとうございました。
飛行場建設のために強制収容、労働力提供、標的となり犠牲が出る等、
戦時中の飛行場は地元の方にとってロクなことがないですね。
そういう過去の体験を通して語られる時事問題は重みがあります。
by とり (2014-03-25 18:30) 

お名前(必須)

72歳男性、横浜在住者です。
人吉東小学校の遠足で何度訪れた事でしょう。昭和20年代後半の思い出は、その懐かしさは今も鮮明、生涯忘れることはありません。
全く何にもない荒漠たる滑走路、脇にある掩体壕、防空用たこツボ。
滑走路の末端まで皆と走って行き景色に見とれ、取り残されそうになって急いで駆け戻った事も。
ときどきセスナ機や小さなヘリコプターが飛来、市内の上新町から歩いて・・・・、熱い炎天下の道は遠かった。柳瀬橋から見た川辺川はきれいだった。川は、川辺川はまだ当時のままだろうか。

by お名前(必須) (2017-01-23 10:06) 

とり

■横浜在住者さん
戦後飛行機の運用があったのですか。
1947年の航空写真を見ると、確かに掩体壕、タコツボらしきものが残っていますね。
現地にお邪魔した際は、車から降りるのも躊躇する程の豪雨で、
景色の印象は特に残っていないのですが、
とても美しい場所だったのですね。
大変貴重なお話をありがとうございました。
by とり (2017-01-23 19:03) 

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