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稲毛飛行場跡地 [├空港]

  2012年7月 訪問 

千葉県‎千葉市‎美浜区にある稲岸公園。

現在ここは海岸線から約2.4km内陸に入った場所なのですが、

この周辺はかつて海岸線で、干潮時は広大な干潟が広がっていました。

そしてこの干潟が「稲毛飛行場」として利用されていました。

日本の航空界草創期の記述に必ず登場する人物、奈良原三次縁の飛行場です。

 

奈良原三次(1877~1944)は1908年東京帝国大学工学部造兵科卒業。

海軍少技士となり横須賀海軍工廠造兵部に勤務するかたわら、木村俊吉理学博士の指導で飛行機の研究をしました。

そして新編成の臨時軍用気球研究会に任命。

1910年10月、自ら設計した奈良原式1号機を自費で完成させ、

発動機はフランス製のノーム50馬力を付ける予定で注文したのですが、

どこで間違ったのか、到着したのはフランス製のアンザニ―25馬力だったのでした。

予定の半分の馬力では当然飛行に足りず、戸山ヶ原(東京)での試験飛行は地上滑走で終わりました。

今なら密林さんにクレームのメールを入れればすぐに正しい注文品を送ってくれるのでしょうが、

このエンジン手配の不備は歴史な意味を持つこととなりました。

史実では、

・1910年12月 東京の代々木練兵場にて、外国機による国内初飛行に成功
・1911年05月 奈良原氏製作の国産機による初飛行に成功

となっています。

もう少し細かく見てみますと、軍主導で(この場合国の主導と言い換えてもよいのかもしれませんが)、

日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学び、飛行機を購入して持ち帰り、飛行に成功したのが、1910年12月。

それから遅れる事5ヵ月で奈良原が初飛行に成功した。ということになっています。

ところが実は、奈良原が自費で設計、製作した奈良原式一号機の完成は、外国機による国内初飛行の半年前だったのです。

もし発注通りのエンジンが届いていたとしたら、

「外国機による国内初飛行」と、「国産機による国内初飛行」の順番が入れ替わっていたのかもしれません。

 

それはともかく、一号機が失敗に終わった翌年1911年の春には奈良原式二号機が完成しました。

この第二号機を同年5月に開設したばかりの陸軍所沢飛行場に持ち込み、練習を行いました。

そして自らの操縦により高度4m距離60mの飛行に成功。

この時奈良原は軍籍を離脱しており、機体も自費製作であったため、これが

「1911年05月 国産民間機による初飛行」として史実に記されることになりました。

 

次に稲毛海岸が飛行場になったいきさつについてです。

自作機の飛行に成功した奈良原は更に飛行機の製作を重ねる一方、

自身は親戚からの反対で操縦桿を握ることができくなってしまったため、

白戸栄之助を操縦士として養成します。

そして1912年4月、川崎競馬場にて奈良原式4号機「鳳」号による民間初の有料公開飛行等に成功、

同年5月には青山練兵場(現神宮外苑)での公開飛行にも成功し、白戸以外にも操縦士を養成する必要性を感じます。

この時まで練習場所は当時唯一の飛行場であった陸軍の所沢飛行場の一隅を借りていたのですが、借り物では遠慮があります。

そのため金のかからない、いつでも自由に使える民間の飛行場を作ろう。ということになりました。

目を付けたのは、奈良原がよく鴨猟に行っていた、東京湾の最奥に当たる浦安から船橋、千葉方面の内湾沿岸でした。

この場所は遠浅で汐が引くと、2,3千メートルも沖まで一面の干潟となり、砂がしまって堅く、

荷馬車が海の中を通っている状態で、汐の満干の不便さえ忍べば、金もかからず、ほとんど無制限に広いし、

練習には申し分ないことから、同海岸の調査が進められることになりました。

当時の稲毛海岸は東京人の行楽地として知られており海の状態もよく、

東京にも近く、鉄道の便も良い上に、大きな旅館があって、

この旅館の庭先の海岸寄りにちょうど格納庫が建てられるくらいの空き地があり、

旅館の主人が格納庫を建ててくれるということで話はトントン拍子に進み、ここに稲毛飛行場開設の運びとなったのでした。

こうして5月には稲毛飛行場にて、奈良原の一番弟子白戸、二番弟子伊藤音次郎の練習が開始されたのでした。

 

本拠地も決まり、全国に巡回飛行をすることになり、

大正元年、中国、九州、四国を巡回飛行、大正二年には、水戸と金沢で飛行、

その後朝鮮に渡り、京城と平壌で飛び、続いて北陸から北海道に渡り、帰りは青森、仙台、宇都宮と来ました。

こうして稲毛海岸の干潟飛行場を本拠地として全国で巡回飛行会を催したため、

「稲毛が民間航空発祥の地である」といわれる所以となっています。

 

当時民間でこれだけのことをしたのですが、財政的にはやはり相当厳しいものがあり、

借金のため発動機が差し押さえられて飛べなくなり、一時東京に引き上げたとか、

五号機を代金未払いから取り上げられてしまったので、既にボロボロになった四号機を引き出して使用したとか、

記録からは相当苦労したことが読み取れます。

四号機は「鳳号」と名付けられたのですが、これは出資者の贔屓にしていた横綱「鳳」から命名したのだそうで、

このへんもスポンサーへの気配りなのかもしれません。

 

こうして金銭面で苦労しながらやっていたのですが、とうとう身動きがとれなくなってしまい、

奈良原は1913年末に他の事業を起こすべく一旦航空界から引退します。

そして時は流れ1930年に津田沼日本軽飛行機倶楽部の会長に就任し、銀紙飛行機献納運動、グライダーの普及発達に尽力し、

よく後進の指導・育成に努力するなど、生涯を航空の発展に捧げたのでした。

 

奈良原によって作られた「民間航空発祥の地・稲毛飛行場」は、奈良原が1913年に一時引退した後も使用されたのですが、

1917年6月の台風で壊滅してしまいます。

このことについてはまた後日別記事で。

 

D20_0107.jpg

「民間航空発祥之地」碑

「一九一二年五月奈良原三次氏この海浜に初めて練習飛行場を創設教官白戸栄之助氏により飛行士の養成をはじめた
この地がわが民間航空発祥の地である 一九七一年七月 伊藤音次郎記」と記されています。

 

D20_0110.jpg

 

D20_0111.jpg

碑とキティ―ホークの松

 

稲毛飛行場跡地:map 


      千葉県・稲毛飛行場跡地      

稲毛飛行場 データ

所在地:千葉県‎千葉市‎美浜区‎稲毛海岸‎4丁目‎15‎
座 標:N35°38′03″E140°04′37″
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1912年05月 飛行場開設
1913年     奈良原一時引退
1917年06月 台風により壊滅

関連サイト:
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コメント 5

me-co

間違いなのか?故意なのか?
歴史のいたずらは皮肉なものです。
しかし、台風で壊滅するような場所にでーんと林立するマンション、
考えてみれば不思議です(--;)
by me-co (2012-09-14 07:54) 

鹿児島のこういち

第一号機は複葉機だったのでしょうか、それとも単葉機?どんな形してたのでしょう(^O^)
広い干潟だったのなら、アサリ貝やハマグリ、赤貝なんて沢山捕れたのでしょうね。現代は少なくなりましたね(´A`)
by 鹿児島のこういち (2012-09-14 11:05) 

koume

密林さんw
確かに届きそう~[壁]・m・) プププ
いつもとても詳しく調べられていますね~すごいな~と思います^^
by koume (2012-09-14 19:38) 

an-kazu

へぇ、知りませんでした・・・

稲毛といえば、ムカシこんなのもあったんですがね。゚(゚´Д`゚)゚。
http://ja.wikipedia.org/wiki/志賀_(海防艦)
by an-kazu (2012-09-14 20:20) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■me-coさん
軍は飛行機の研究を始めるに当たり、まずは両名に留学させ、外国機を購入させました。
国内の現状を考えれば順当なことだと思います。
ところが民間人に手作りヒコーキで先を越されては面目丸つぶれですからね。
結果的にはこれでよかったのかもしれません。

■鹿児島のこういちさん
一号機の事調べたのですが、わかりませんでしたm(_ _)m
職人に作らせた竹製のヒコーキだったそうです。
オイラ潮干狩りってしたことないんですけど、採れたんでしょうね。

■koumeさん
今はネットでなんでも買えますからね~。
便利になったものです。

■an-kazuさん
Σ(゚Д゚;)稲毛海浜公園にこんなものかあったんですね!
海防艦というジャンルの船があることも知りませんでした。
ザッと調べてみたんですが、迎撃型という理解でよいのでしょうか?
by とり (2012-09-17 07:15) 

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