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岩川飛行場跡地 [├空港]

  2011年6月 訪問 

無題3.png

鹿児島県‎曽於市‎にあった「岩川飛行場」。

上図は現地の地図を参考にして作りました。

オレンジが実際に使用された滑走路。

グレーは「予定滑走路」。西端で着工したのですが、中止したのだそうです。

末期には特攻作戦がとられたわけですが、命と引き換えの作戦にもかかわらず戦果が低調であることから、

元々不時着用の基地であった所を、様々な工夫を凝らして夜襲作戦をとった「芙蓉部隊」が

終戦の年の5月末から終戦日まで使用していました。

D20_0220.jpg

・A地点(以下3枚とも)。

周辺に案内標識があり助かりました。

太平洋戦争末期の昭和二十年に、海軍夜間戦闘機隊の芙蓉部隊が利用し、沖縄方面等に出撃した。昭和五十三年に「芙蓉之塔」が建立され戦没者が祀られた。」と書かれています。

 

D20_0233.jpg

芙蓉之塔の由来(全文) 昭和初期における国際情勢は、列国の産業資源確保と輸出増大のために、支配領域を拡大する競争に奔走していた時代であった。日本は東アジアの地で、明治維新以来積極的な対外政策を進めた。その結果、欧米諸国との衝突に加え、近隣諸国への軍事的進出が反発を招き、第二次世界大戦へと突入していった。日本の戦局は、昭和十九年になると各地で苦戦を強いられた。そこで、軍部は打開の為に特攻作戦を採用した。しかし、好転はしなかった。その頃、東南アジアを転戦していた海軍飛行隊の美濃部正少佐は、特攻による戦果の低調なるを進言し夜襲部隊編成を認めてもらった。静岡県藤枝基地において正式誕生した芙蓉部隊は、鹿児島県鹿屋基地に進出したが、激しい米軍攻撃に対処する為、昭和十九年から岩川飛行場の急造に取りかかった。昭和二十年五月に完成した岩川飛行場から、彗星飛行機を主とする夜襲隊が次々に沖縄方面に出撃した。この作戦は、昭和二十年八月十五日の終戦まで展開し、藤枝基地以来百余名の戦死者を出した。この「芙蓉之塔」は、その慰霊の為に、生き残りの搭乗者や旧大隅町役場及び地元有志により、昭和五十三年十一月に建立されたものである。平成二十一年三月 曽於市教育委員会

 

D20_0234.jpg

おおよそこの方向に滑走路が伸びていたのではないかと

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:岩川 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:1,500x300 1,200x400 主要機隊数:小型2,0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住2,300平米、指揮所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:中、小型無蓋30

岩川飛行場:map   


      鹿児島県・岩川飛行場跡地     
芙蓉部隊を率いた美濃部正少佐は、「特攻に劣速の練習機まで投入しても、敵艦に近づくことすらできない」と主張し、幹部会では並み居る上官に対し、 「練習機を特攻に使うというのなら、試しにあなた方全員が乗って攻撃してみてください。私が零戦一機で全て撃ち落として見せます!」と語り、夜襲部隊編成を認させたという有名なエピソードがあります。戦果を上げるために様々な工夫を凝らし、昼間は滑走路全面に刈り草を敷き詰め、移動式建物を2棟、木を数本立て、牛10頭を放ち牧場に偽装しました。そのため終戦日まで一度も空襲を受けることなく、部隊運用を続けることが出来ました

岩川飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
空港種別:秘匿飛行場
所在地:鹿児島県‎曽於市‎大隅町月野‎
座 標:N31°34′27″E131°00′50″
標 高:178m
滑走路:1,300m×200m(使用部分は1,300m×80mに限定)
 「日本海軍航空史」(終戦時)には、1,150mx300m(転圧)、(1,200mx200m)x2 と記載あり
方 位:16/34
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1944年 着工
1945年 05月 完成

関連サイト:
Wiki/芙蓉部隊   
国土地理院 1947年10月当時の写真(USA M549 56) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
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コメント 8

me-co

@@;凄いカモフラージュですねー
もっとビックリなのは、それが効果あったということ。。。
by me-co (2011-11-02 01:04) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■me-coさん
あちこちの基地の記録を見てみると、偽装しても簡単に見破られていた。
という話を見ますが、ここは完璧だったみたいですね。
by とり (2011-11-02 05:06) 

鹿児島のこういち

滑走路を偽装する事は秘匿も含め戦争末期は大事な事でしょうが、問題は米軍との電探の能力の差が有りすぎた事に海軍、陸軍ともに理解していたかどうかだと思います。
夜戦を仕掛けても、戦闘機は目視で相手艦船はレーダーでは、昼間戦闘と変わりないですからね。
電探の能力の差を確実に認識していたら、夜間でも低空飛行での攻撃を仕掛けたはずですし、芙蓉隊の犠牲者も少なかったと思います。
自分は大東亜戦争をまったく否定するわけではありません。当時の世界状況、国民世論、軍内での派閥抗争、若者士官の反乱、そしてアメリカ情報部に上手く乗せられたような大日本政府の行動。
どうしても軍事行動を起こさざるを得ない状況にあった事は確かですから。そういう状況にあった日本人を自分に置き換えたとして、やはり同じ道を進むかもしれないと思うからです。
by 鹿児島のこういち (2011-11-04 10:22) 

とり

■鹿児島のこういちさん
彼我の全般的な技術力の差についてはオイラまったくと言っていいほど知らないのですが、
電探の能力の差についてはジパングで夜間の艦隊同士の戦闘が描かれてましたね。
>軍事行動を起こさざるを得ない状況
同感です。民間だけでなく、軍内部にも戦争反対派はいて、悩みに悩んだ末の決断だったのですよね。
我々の御爺に当たる世代の人々が当時の状況の中、「もうやるしかない」と追い込まれたのだと思っています。
大戦が起こるきっかけとなった世界情勢と今がなんとなく似通っている部分があり、
だからこそ「なんて馬鹿なことを」と切り捨ててしまうのではなく、
そこから何ができるのか学ぶ必要があると思います。
by とり (2011-11-05 05:56) 

鹿児島のこういち

日清日露戦争に勝ち、樺太、満州の権益を得たにもかかわらず、国民や国に恩恵がわずかしかないという不満。そこへ不満を煽り、新しい植民地を広めるべきだと煽動する右翼団体と一部のマスコミ新聞社。その甘言に乗り、軍を非難する国民。
国民のほとんどが、戦国時代からの戦をして「勝てば領地が増える」というような考え方を持っていた時代、だからこそ、負けるとか戦争を始めたら、どこでケリをつけるのかなんて考えてないんですよね。
そのくせ、戦争に負けると、まったく手のひらを返すがごとく、この戦争は軍部が無理矢理引き起こしたのだから全て軍部が悪いと責任を感じない国民。
戦後66年を過ぎた今も、戦争を語ろうとしない軍出身者が数多くいるのは、酷い負け方をしただけではないと自分は考えています。
戦地から命からがら祖国へ戻れば、軍人への酷い仕打ちも相当あったらしいですから。
あの大戦に負けたからこそ、負けたらとんでもないことになると実に染みた日本人。そして勝ったアメリカはどうでしょう?そのあとも「世界の警察」よろしく、自分たちの権益を守るため戦争を繰り返し、どれだけ痛い目に会ってるでしょうか。
もし、日本が大戦に勝つか講和に持ち込んでいたなら、アメリカと同じ道を歩んでいたかもしれないと思います。
by 鹿児島のこういち (2011-11-06 22:35) 

とり

■鹿児島のこういちさん
貴重なコメントありがとうございます。
熱しやすく冷めやすい国民性がここにも出てますね。
by とり (2011-11-07 06:01) 

大浜 一成

最後の予科練として岩川基地で終戦を迎えた者です。
懐かしい一度訪ねて見たい。
by 大浜 一成 (2014-05-19 10:46) 

とり

■大浜 一成さん いらっしゃいませ
私にとって美濃部正少佐は、一度お目に掛かりたい伝説の方です。
非常に特異な隊長さんの基地に実際におられたのですね。
再び訪問する機会に恵まれますように。
コメントありがとうございました。
by とり (2014-05-19 20:25) 

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