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海上自衛隊鹿屋航空基地 [├空港]

  2011年6月 訪問 

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鹿児島県‎鹿屋市にある「海上自衛隊鹿屋航空基地」。

戦時中は「鹿屋海軍航空隊」で、神風特攻隊最終出撃基地として、

また現在では資料館、二式大艇が展示してある場所として有名な基地です。

上はグーグルマップの鹿屋基地に、「鹿屋海軍航空隊」当時の滑走路(下記リンク参照)を描き加えたものです。

当時は二本の滑走路が少し角度を変えてあったのですね。

北側滑走路の西側エンド位置はほぼ同じですが、現在は平行滑走路に変更されており、

南側の滑走路はそのまま使用していますが、東側に延長していることがわかります。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:鹿屋 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1,760(x50) 1,700(x50) 500(x30)コンクリート 主要機隊数:小型2,0 中型2,0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住3,500平米、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場、魚雷同時調整12本、同格納庫200本 掩体:小型有蓋10 中小型無蓋200 其ノ他記事:雷同時調整33本 同格納庫168本

D20_0198.jpg

フェンス越しなので影が入ってしまいました。。。^^;

 

海上自衛隊鹿屋航空基地:map   


      鹿児島県・海上自衛隊鹿屋航空基地     
特攻作戦では445機、828名の若者が出撃しました

海上自衛隊鹿屋航空基地 データ
設置管理者:旧海軍→防衛庁
4レター:RJFY
所在地:鹿児島県‎鹿屋市‎西原‎
座 標:N31°22′03″E130°50′43″
標 高:65m
滑走路:
1,700mx50m 「日本海軍航空史」(終戦時)より
2,250m×45m(08R/26L)
着陸帯:1,200m×40m(08L/26R)

沿革
1936年04月 鹿屋海軍航空隊 開隊
1945年02月  第5航空艦隊司令部設置 特攻作戦開始
     08月 太平洋戦争終戦 米第5空軍進駐
1948年11月 米第5空軍撤退
1950年12月 警察予備隊鹿屋駐屯
1952年10月 保安隊 第12連隊鹿屋駐屯部隊 新編
1953年12月 警備隊鹿屋航空隊開隊
1954年07月 海上自衛隊 鹿屋航空基地 開隊

関連サイト:
Wiki/鹿屋航空基地   
国土地理院 1947年1月当時の写真(USA M11 80) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
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コメント(9)  トラックバック(0) 
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コメント 9

雅

445機、828名の命はどうなってんでしょうかね?
全く無駄なことを・・
by (2011-10-23 12:06) 

me-co

新旧の滑走路合わせ@@;
かなり緻密な作業と見ました!(<ちょいと測量をかじったことがあるもので^^;)
by me-co (2011-10-23 13:19) 

tooshiba

亡くなった英霊に哀悼の意を表します。m(_ _)m
by tooshiba (2011-10-23 15:40) 

鹿児島のこういち

以前、とりさんにP3C体験飛行の時の写真を送りましたが、目の前でP3Cが全機集まり、タキシングや離発着を繰り返すのを見たら、圧巻ですよ(^O^)航空祭当日には見られませんから(^^ゞ
当時の写真の滑走路の上が今とあまり変わらず広がってますが、今も道路との境に土手になっていて桜が植えられています。
ここで親父が子供の頃、米軍機(親父はグラマンだったと言ってますが)に機銃掃射されて、叔父さんに抱き抱えられて防空壕に飛び込んだと話してます。親父が9歳の時の事です。
by 鹿児島のこういち (2011-10-24 02:01) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■雅さん
本当に悲しいことですね。
せめてその気持ちを無駄にしないようにしなければと思います。

■me-coさん
>緻密な作業
素人のオイラにはピンときませんが、専門家の目で見るとそうなのですか。

■tooshibaさん
この作戦は連合国側に衝撃を与え、その後の対日政策にも大きな影響を及ぼしたと聞きます。
こういう記事を作ってると、「彼らがもし今の日本を見たらどう思うだろう」と考えてしまいます。

■鹿児島のこういちさん
その節はありがとうございましたm(_ _)m
お父様、危ないところだったのですね。
ご無事で何よりでした。そうでないと今こうして鹿児島のこういちさんと
やり取りできてないのですよね。
私事ですが、オイラは両親とも沖縄で、親類の半分は戦死しています。
オイラが今いるのも偶然です。
by とり (2011-10-24 06:19) 

sak

お世話になった社長さんがここから飛び立たれたそうです
2度飛び立たれたけれど2度ともエンジントラブルで海に墜落
奇跡的に2度とも戻ることができて
3度目の準備をしていたら終戦になったって
ひと時を一緒に過ごした人たちが散って行ったのに
自分が生き残っておられること
何とも言えない気持ちでおられたようで
特攻の事ほとんどお話されなかったのですが
数年前からふとした時にぽつりぽつりお話されるようになって
その時のこと...特攻機こと...操縦の仕方とか...
でも一度も亡くなった方々のお話されないのは
ずっと自分が生きていること対していろんな思いがあるからかなって...
by sak (2011-10-25 19:11) 

とり

■sakさん
そんな数奇な運命を辿った社長さんがおられるのですね。
生き残れて本来は喜ぶのが人として自然なはずなのに、
こういう方って、生きることに罪悪感すら抱き続けるとよくお聞きしますが、これこそ悲劇ですね。
社長になられたのも、戦友へのせめてもの恩返しかもしれないと思いました。
by とり (2011-10-26 07:29) 

ローズ

こんにちは。昨日鹿屋に行ってまいりました。史料館素晴らしかったです。知覧とあわせ、日本人なら一度は行くべきですね。今の日本人は愛国心の純粋さを忘れています。桜花隊の教官だった生き残りの方が子供のころ近所にお住まいでして、大変良くしていただきました。非常に姿勢の良い、温厚で紳士的な方でした。BAKA BOMB、などと、当時の写真や思い出の品、本を見せながら当時高校生の若かった私に丁寧に説明してくださいました。惜しいことに、録音をしておくべきでした。同じく、終戦で生き残ったことを長らく悔いておられたようです。その方もいまはすでに亡く、英霊の皆様に、是非香華を手向けに、という長年の願いが叶い、ほっとしております。鹿屋の滑走路の位置、丁度現地の自衛隊員の方に伺ったところ、旧来と同じ場所だ、とおっしゃっておられました。詳しく教えていただいてありがとうございました。とてもうれしいです。感謝申し上げます。一生これからも、英霊の方々への感謝と追悼の気持ちを胸に生きていきます。これは、日本人としての礼儀です。またこれからも、素人には到底及ばない、専門的な御プログの更新を楽しみにしております。有難うございました。
by ローズ (2014-08-16 04:01) 

とり

■ローズさん 
おはようございます。いらっしゃいませ。
桜花という兵器の特殊性を考えると、その教官が人間的に非常に立派な方だということを知ると、正直救われる思いです。
実際に桜花で命を落とした若者たちが最期の時期接したのがこの教官であったということは、
彼らにとって大きな拠り所であったと想像致します。
拙いブログに貴重なお話を聞かせて下さり、本当にありがとうございました。
by とり (2014-08-16 07:14) 

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