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小千谷(小粟田原、中越)飛行場跡地 [├空港]

   2011年9月、2016年7月 訪問 

無題7.png
1946年6月当時の写真(USA M167-A-5 51) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


2016/9/11追記:再訪して記事修正しました。

新潟県‎小千谷市‎小粟田(こわだ)‎。

ここに地元周辺の人々によって1932年開場した民間飛行場がありました。

飛行場ができたいきさつについて、「小千谷の歴史・市制施行十周年記念」 にこんなことが書かれていました。

「明治四十一年十月、工兵第十三大隊隷下の工兵大隊が千田村小粟田原に駐屯しました。

この駐屯はそれほど長続きせず、大正十四年四月二十六日に大隊の解散式が行われました。

その後昭和六年に入り、満州事変が発生すると、地元でも愛国心の高まりを見せる様になります。

小千谷町はこの機をとらえて工兵大隊廃止跡の小粟田原約十万坪を整備して陸軍飛行場とすることを軍当局に請願しました。

昭和七年七月、小千谷町と三島郡片貝町の招きによる東京飛行学校のユニボル式戦闘機一機が飛来して

数万の観衆の拍手を浴びました。

これに勢いを得て八月、附近十四カ町村の在郷軍人分会、青年会は、

小学校児童を含む述べ四千人の労力奉仕と、二千人の失業対策工事によって、五万坪の地ならしを行いました。

十月二十二日開場式が挙行され、

黒山のような群衆の上で陸軍機、民間機計七機の華やかなページェントが繰り広げられました。

昭和七年十二月、一口一円以上寄付の会員四千余名に上る"中越飛行協会"が組織され

労力奉仕による数回の拡張が行われました。

陸軍に献納する請願運動も継続されましたが、それはついに成功せず、

十二年二月"中越飛行場"は帝国飛行協会に寄付されて民間飛行場となりました。

支那事変に入ると、そこには中学校生徒のグライダー練習が見られるようになりました。」

 

要するに小千谷町としては、工兵大隊駐屯跡地に飛行場を整備し、

そこに陸軍飛行場を招致したかったのですが実現せず、

民間飛行場「中越飛行場」になりました-ということのようですね。

これを「国内初の町有飛行場」と説明しているサイトもあります。

 

「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」(下記リンク参照)の中に「中越飛行場」という資料があります。

この情報はtuka@北海道さんから頂きました。tuka@北海道さんありがとうございましたm(_ _)m 

この資料の中で当飛行場については「1934年5月調査」となっています。

上のマップはそこから作図しましたので、その時期の飛行場です。

町としては陸軍飛行場になって欲しかったのですが、なかなか思惑通り事が運びません。

しかし、「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧、そして「帥作命甲第2号別紙」では、

当飛行場が「陸軍の小千谷飛行場」として記載されており、最終的には陸軍の飛行場になったことが分かります。

では「中越飛行場」は、いつ「小千谷飛行場」になったのか。

その時期がなかなか分かりませんでした。

後から出てきますが、1940年10月の大日本飛行協会資料では、

新潟縣立小千谷中學校グライダー部が当「中越飛行場」を使用していたとあります。

資料の出た順で見ると、「中越飛行場」と確認できる一番新しいものはこの1940年10月の大日本飛行協会資料なので、

この年以降終戦までのどこかで陸軍飛行場になったと考えられます。

で、防衛研究所でコピーした資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の中で、

1943年4月調べの「小千谷飛行場」のことが出ていました。

其の他として、

「本場は元中越飛行場と稱せる民間飛行場であったが、昭和16年7月陸軍第1航空軍司令部の所轄となった」

とありました。

1941年7月、民間の「中越飛行場」は、陸軍の「小千谷飛行場」になったということがこの資料から分かりました。

 

・1934年5月調査「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」・中越飛行場
・1943年4月調査「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」・小千谷飛行場

どちらも海軍水路部作成の資料であり、飛行場の地図と説明があるのですが、比較してみると違いが幾つかあります。

1934年5月の方では格納庫、事務所、そして滑走路のこちら側とあちら側に吹き流しの表示があるのですが、

1943年4月にはこれら諸施設、設備の表示がありません。

格納庫、事務所等施設があった場所に小さな建物が幾つか並んでいるのですが、

格納設備、観測設備の欄は「ナシ」とあります。

1934年5月の地図で「コンクリート」とあった箇所が1943年4月の方では「ペトン跡」とあります。

別資料ですが、「帥作命甲第2号別紙」では、当飛行場は秘匿飛行場の中に含まれていることからすると、

秘匿化のため既存の施設を撤去、隠匿したことが伺えます。

民間飛行場が軍の飛行場になった際、大規模拡張という例が多いように思うのですが、

必ずしもそうとばかりは限らないのですね。

 

小千谷が秘匿飛行場だったことを裏付ける地元資料もあります。

「小千谷市史下巻」の中に終戦間近の「小粟田原飛行場」についてこんな一節が残っていました。

「昭和二十年八月一日の長岡空襲は隣接する我が市域の人心に大衝撃を与え、戦局の危急を身を以て感じさせた。

その頃敵機はしばしば飛来して、小粟田原飛行場を目標として機銃掃射を加えたりした。

ある日勤報隊が滑走路のカムフラージュのために芝を植え、飛行機を隠すために土穴を掘る作業をしていたところへ、

数機の飛行機が現れた。

一同空を仰いで万歳万歳と手を振っていると、いきなり機銃掃射を受け、文字通り仰天して

林の中へ逃げ込んだといった話もある。

戦局の急迫は人々の想像のほかだったのである。終戦当時、小粟田原飛行場には燕部隊が駐屯していた。」

陸軍が当飛行場に「小千谷」という正式名称を付けようと、

地元の方にとってここは「小粟田原飛行場」だったのですね。

2013/9/22追記:KIJ-AP-BLDG様より情報頂きました。昭和30年9月21日付の新潟日報によりますと、小千谷市は当飛行場跡地に市営飛行場建設構想検討とのことで、運輸省の視察でも好感触を得たこと等書かれていました。ところがそれから3年足らずの昭和33年6月21日付の同紙面では、 小千谷市が当地を牧野として開発計画を立てていることが記されていました。なぜか途中で計画が変更になってますが、昭和30年の時点では、当地に再び ヒコーキが飛び回る可能性が濃厚だったのです。KIJ-AP-BLDG様情報ありがとうございましたm(_ _)m 

2014/9/8追記:アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、新潟縣立小千谷中學校グライダー部が当飛行場を使用していたという記録があります。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m

防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の当飛行場情報を以下引用させて頂きました

面積 北東-南西1,200米 北西-南東200乃至400米 総面積37万萬平方米
地面の状況 平坦且堅硬なるも降雨後は軟化す・一面に山芝密生す・南より北方に向け
緩かに傾斜す・排水概ね良好なり
目標 信濃川、小千谷町
障碍物 南西方付近に樹木(高さ20米)北方に電線あり
離着陸特殊操縦法 離着陸は北東又は南西の2方向とす
格納設備 なし
照明設備 標識灯(1萬燭光)1あり
通信設備 中隊司令部に特設電話あり 千田郵便局(南方100米)にて電信及電話を取扱ふ
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料貯油槽あり
修理設備 小千谷町に理研工業工作部自動車修理工場あり
宿泊設備 小千谷町に旅館17(収容員数計300)あり
地方風 11月-翌年3月間は北西又は南東風にして4,5,8,9月は東又は南東風なり
地方特殊の気象 12月-翌年2月間は晴天日数少なく天候不定なり 降雪は12月-翌年4月間にして
最大積雪338糎なり
交通関係 小千谷町より「バス」の便あり
其の他 本場は元中越飛行場と称せる民間飛行場なりしが昭和16年7月陸軍第1航空軍司令部の所轄と為る
(昭和18年4月調)

DSC_0003.jpg

撮影地点・1

この道路の右側少し先から滑走路が伸びていたはずです。

また、(1934年5月時点では)この道路の左側には事務所、格納庫、吹き流しがありました。

DSC_0006.jpg

滑走路はここから画面奥に向かって真っすぐ伸びていたはずです。


      新潟県・小千谷(小粟田原、中越)飛行場跡地      

小千谷(小粟田原、中越)飛行場 データ

設置管理者:小千谷町→帝国飛行協会?→旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:新潟県‎小千谷市‎小粟田‎
座 標:N37°21′06″E138°47′46″
滑走路:1,000m×300m?
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1908年10月 工兵大隊が千田村小粟田原に駐屯
1925年04月 26日 大隊解散式
1931年09月 満州事変勃発。 小千谷町、大隊廃止跡を陸軍飛行場とすることを軍当局に請願
1932年07月 小千谷町と三島郡片貝町の招きにより戦闘機1機が飛来。数万の観衆が集まる
     08月 周辺住民により五万坪の地ならしを行う
     10月 22日  開場式
     12月 "中越飛行協会"が組織され、数回の拡張を実施
1937年02月 帝国飛行協会に寄付されて民間飛行場となる
1940年10月 この頃新潟縣立小千谷中學校グライダー部が滑空訓練に使用
1941年07月 陸軍小千谷飛行場になる
1945年08月 この頃しばしば空襲を受ける
1955年09月 小千谷市は当飛行場跡地に市営飛行場建設構想検討、運輸省視察-新潟日報
1958年06月 小千谷市は当飛行場跡地を牧野として開発計画-新潟日報

関連サイト:
アジ歴  
ブログ内関連記事
       

この記事の資料:
「小千谷市史下巻」
「小千谷の歴史・市制施行十周年記念」
新潟日報 昭和30年9月21日、昭和33年6月21日
「帥作命丙第119号別紙」
「帥作命甲第2号別紙」
「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」


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コメント 5

鹿児島のこういち

綺麗に拡がる美田ですね!うまい米が採れるんでしょうねぇ( ̄¬ ̄)
小粟田と小粟田原ですが、住所と地番は別物で、小粟田原とは「字」ではないですかね?住所名は市町村の合併や区画整理などの住所統合等で変わったりもします。中には住民がこの名前は嫌だから変えたいというのもあります(^o^)実際、鹿児島市と谷山市が合併した時にありました(^^ゞ
それに対して地番は、明治時代にできた字絵図を基本にしてますので、地番測量の終わってないところなどは、字絵図の名称、番号と住所の名称、番号が違うことは多々ありす。
今はどうかわかりませんが、以前は法務局で土地登記閲覧をするとき、この事がわかってないで住所だけで申請すると、見たいところとは違う登記が出てきたりしましたよ(^_^;)
by 鹿児島のこういち (2011-12-02 09:49) 

鹿児島のこういち

さっきの米、番号が違うことが多々「ありす」ですってヾ(・_・;)
「ま」が抜けてましたね!本当の「間抜け」でした(≧▽≦)
by 鹿児島のこういち (2011-12-02 09:57) 

an-kazu

失業対策の一環でもあったのですね・・・
by an-kazu (2011-12-02 23:43) 

me-co

ちなみに姓に「粟」と付く人
「くり」と間違えると大抵は怒りだしますので、お試しを・・・(--;)
by me-co (2011-12-03 10:02) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■鹿児島のこういちさん
>住所と地番は別物
そういう事情があるのですか。まったく知りませんでした。
それじゃここもそうなのかもしれないですね。

■an-kazuさん
>失業対策
当時も今も変わらずですね~。

■me-coさん
じゃ、じゃあ、試してみるくり。
by とり (2011-12-04 07:27) 

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