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都城東飛行場跡地 [├空港]

 2009年10月 訪問 

D20_0361.jpg

「都城東飛行場跡地」  

この跡地について事前に分かっていたのは、

「都北町にある公園に飛行場跡地の碑がある」ということだけでした。

ぐーぐる地図でも探せず、カーナビにも出てこず、人に尋ねても分からないしで、

都北町の中をグルグルと随分走り回ったのですが見つけられず、

(もう諦めて次行こう つД`)・゚・。・゚゚・*:.。 )

と考えて、次の目的地をナビに打ち込むため邪魔にならない場所に駐車したら、なんとそこが探していた公園だったのでした。

 

2017/3/19追記:防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」

の中で、当飛行場についての非常に詳細な記述がありましたので、引用させて頂きます。

判決 自重十屯以下(小型)飛行機の使用に適す
飛行地区
 滑走地区 一八〇〇x二〇〇 張芝転圧
 舗装路 なし
 土質 火山灰を含む壊土 
 地表面の状況 表面張芝なるも雨後軟弱地耐力充分ならす
 周辺障碍物の有無 なし
付属設備
 誘導路 七〇〇x三〇
 宿営 三角兵舎三四棟(一五〇○名収容可)
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 三角兵舎に配線しあり
 給水 水道なし井戸水水質良なるも水量少し
其の他
風向 北北西 朝濃霧□あり

D20_0362.jpg

工場の一角にある小さな公園。

この周辺が当飛行場の中心部だったのだそうです。

 

D20_0354.jpg

「特別攻撃隊出撃の地」の碑とその後方の説明板(全文)

鎮魂(都城東飛行場)
太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立った。
都城東飛行場は、昭和十九年前半、海軍が地元住民の協力を得て沖水川流域の田んぼを飛行場に急増したもので、表面がでこぼこの誘導路は、たこの足のように伸びた形をしており南北に約一五〇〇メートル、東西に五〇〇メートルの大きさで、まさに自然の草原さながらであった。
当初は海軍が零式戦闘機で訓練していたが、翌二十年三月、来る沖縄戦に備え第百飛行団配下の四式戦(疾風)装備の飛行第百一戦隊が展開、その後は陸軍専用の基地となった。
同年三月十八日に西飛行場が空襲を受けたが、東飛行場場の特攻機は、たこの足のような誘導路を伝って森林や山裾の影の掩体に潜み空襲を逃れた。
また、部隊の宿舎も東南側の五〇メートルほどの丘陵地帯に半地下壕式であったため、最後までこの飛行場から特攻機が飛び立った。
同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一次特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立った。
同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。
また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。

以後(昭和二十年)
五月四日    第六次航空総攻撃にあわせて、第六十振武隊(六名)
五月十一日   第七次航空総攻撃にあわせて、第六十振武隊(三名)
                              第六十一振武隊(三名)
五月二十五日 第八次航空総攻撃にあわせて、第五十七振武隊(十一名)
                              第五十八振武隊(十名)
                              第六十振武隊(一名)
                              第六十一振武隊(一名)
五月二十八日  第九次航空総攻撃にあわせて、第五十八振武隊(一名)
                              第五十九振武隊(三名)
六月八日     第十次航空総攻撃にあわせて、第五十九振武隊(六名)
六月二十一日      航空総攻撃にあわせて、 第二十六振武隊(四名) 
六月二十二日                      第二十七振武隊(六名)  
                              第百七十九振武隊(五名) 
七月一日                        第百八十振武隊(二名)
次々に飛び立ち、幾多の若者の命が散っていった。
同年八月十五日、終戦を迎えた。
諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝えること、恒久的世界平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。
平成十三年六月吉日 都城徳穂説攻撃隊戦没者奉賛会  会長岩橋辰也
なお、各振武隊員のお名前は、都島公園(旧陸軍墓地)の特別攻撃隊はやて慰霊碑にあります。

 

D20_0357.jpg

都城東飛行場跡地



ピンの位置に公園があります(地図上にこの公園は表示されません)


     宮崎県・都城東飛行場跡地     

東西両飛行場で合わせて79名の若者がここから特攻機で飛び立ちました

都城東飛行場 データ
設置管理者:旧海軍→旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
面  積:334.7ha
滑走路:1,500mx500m(1,800mx200m芝 という史料あり)
所在地:宮崎県都城市都北町
標 点:N32°24′30″E131°38′03″
*標点はグーグルアースにて算出

沿革
1943年 川崎航空機が都城に飛行機工場を建設することになる
      この工場で生産される大型機の試験飛行用に飛行場を建設することになる
      03月05日 地鎮祭
1944年 秋 おおむね完成。海軍飛行場として開場
      10月05日 飛燕の試験飛行
1945年 03月 陸軍専用飛行場となる
      04月06日 特攻機初出撃 以降7月1日まで出撃続く

関連サイト:
宮崎県/都城市/特別攻撃隊出撃の地碑(東飛行場跡地)  
国土地理院 1947年11月当時の写真(USA R184 20) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
ブログ内関連記事
 

この記事の資料:
宮崎の戦争遺跡
防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」


コメント(20)  トラックバック(0) 

コメント 20

be-sun

都城の近くの生まれです 悲しい事実ですね 帰省したら行ってみます
by be-sun (2010-03-06 07:16) 

yatoho

とりさん おはようございます。

ひえ~~~宮崎まで探索ですか!
と行っても北海道も行かれるんですから^^
いつも二人で目を真ん丸くして感心してみてます。
by yatoho (2010-03-06 08:53) 

スマイル

独身の頃、都城で仕事をしていました。
懐かしいです。
特攻隊の飛行場があったなんて知りませんでした。
貴重なことを知りました。ありがとうございます。
by スマイル (2010-03-06 10:40) 

tooshiba

今日の気分はちょい左。

結局、散らされた命は「靖国の桜」だの「祖国の英霊」だのと虚飾してみたところで、生きて働いてもらった方が断然良かったのではないかと思います。
結論として、精神論だけで戦争はしてはいけない。
人命を軽んじる戦争はしてはいけない。

後ろで「突撃!」とそれこそ軍配を振り上げて若者を戦地に送り出すだけの係をやっていたジジイどもは。
のうのうと、戦後も生きながらえて、寿命を全うしたことでしょう。
「アメリカに負けたのは」どうたらこうたらクダを巻きながら。

在郷軍人とかで悔いるあまりに発狂したとか、玉音放送を聴きながら切腹した拳銃で自殺したとか。
全然聞きませんよね。
つまり、その程度の連中だったってことですよね。日本人とは言え、恥知らずな。

まあ、軍人が全員悪い人間だとは言い切れないにしても、中には極悪人も少なからずいたはずです。
そいつらは、全員、死んだ後で永遠に地獄で苦しめばいいと思います。

某政党が“徴兵制”なんて、聞き捨てならない(与党の議員に小遣いをくれていた教員組織もありますが)言葉を持ち出しました。
それと言うのも、結局は後ろで「お前ら行って来い」と送り出すジジイ(とババア)がいて、えらい目に遭うのは若い世代ってことじゃですよね。
自ら好んで自衛官になる人はおいといて、「自民党は、どこと戦争するつもりなの?」その答えを聞きたい。もちろん全く賛同はできないが。

まさかアメリカじゃないよね。
・・・今度は、富士山がなくなっちゃうかもしれないよ?
長野に海ができちゃうかもしれないよ?
国敗れて山河なしになっちゃうよ?
恐らくは、アジアの某国でしょうね。

長々と失礼しました。
by tooshiba (2010-03-06 15:28) 

Qoo

人間を鉄砲の弾に使うというこの発想
あり得ないよね
でも、当時はそれが潔しとされたのでしょうね
洗脳は怖いですね
by Qoo (2010-03-06 16:48) 

春分

私も出張のついでに都城へは行きました。タカの渡りを見たのですが。
都井岬も寄って、遠くの種子島方向を確認し、幸島の横を通り、リニア実験線
も見ていますが、このことは忘れていました。宮崎はいろいろありすぎです。
by 春分 (2010-03-06 17:14) 

sak

偶然ではなく必然ですね(^^
日本の飛行場の歴史って
戦争の歴史なんだなぁ...って

by sak (2010-03-06 17:47) 

pica

>なんとそこが探していた公園だった
  そんなものですよね(笑
  偶然とはいえ、見つかって良かったですね。
  ↑↑↑
  あ、必然かな(^_^)
by pica (2010-03-06 19:34) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■be-sunさん
近くのお生まれなのですね。
宮崎県は南国のイメージとは裏腹にとても悲しい記憶もたくさんあるところなのだとお邪魔して初めて知らされました。

■yatohoさん おはようございます。
我ながら呆れることがあります^^;

■スマイルさん
こちらでお仕事しておられたのですね。
思い出の場所に違った一面を見るとビックリしますよね。

■tooshibaさん
貴重なご意見ありがとうございます。
オイラの両親は共に沖縄なので、父母の兄弟の三分の一位は戦死してるんですよ。
どんな人物に送り出されたかはともかくとして、戦死した人たちの気持ちは大事にしたいと思ってます。

■Qooさん
人間が誘導装置。
悲しいですね。

■春分さん
あちこち見てこられたのですね。
好奇心旺盛な春分さんらしいです。

■sakさん
必然ですか^^
>戦争の歴史
まったくもって仰る通りですね~。

■picaさん
偶然か必然かわかりませんが、そんなもんですよね^^
ともあれ見つかってよかったです。
by とり (2010-03-06 20:54) 

an-kazu

事前調査バッチリのとりさんでも、
そんなことがあるんですね(^^;)
by an-kazu (2010-03-06 22:56) 

miffy

今回は近所の人への聞き込みはしなかったんですね。
偶然でも見つけることが出来て良かったですね^^
by miffy (2010-03-06 23:44) 

me-co

縁も縁も無い所ですが・・・
なんて悲しい所なんでしょう!
meも外回りしていた時期があったのでわかりますが、意外と公園って場所がわからないものなんですよねー^^;
by me-co (2010-03-07 01:56) 

コスト

>そこが探していた公園だった
シンクロニシティですね^^
九州時代に各地を行きましたが、都城は行ってませんでしたが、ここも特攻基地だったのですね。

>森林や山裾の影の掩体に潜み空襲を逃れた。最後までこの飛行場から特攻機が飛び立った。
ある戦争の本に「若い命が生贄になった」と書かれてましたが、本当に忘れてはならない事実だと思います。
全文の打ち込みは大変だと思いますが、今後も頑張ってください。
by コスト (2010-03-07 13:00) 

koume

都城にも特攻基地があったのですね。
特攻と言うとすぐ知覧を思い出しますが、
あちこちにたくさんあったのですね…。
偶然ですが、先日行って来た大分の日田で、
薬種問屋さんが寄付したと言う零式戦闘機の写真を見てきました。
(アップしています)
by koume (2010-03-07 20:16) 

ハイマン

宮城にも特攻の基地があったとは知りませんでした。
特攻するなんて事はもう繰り返して欲しくないですね。
自爆テロって飛行機には乗ってないけど特攻だよなぁ
平和な世界を望みます!!!
by ハイマン (2010-03-07 22:36) 

とり

■an-kazuさん
オイラ、ズボラなんですよ~^^;
同業のan-kazuさんならご存知でしょうが、
このテのものって、ピンポイントで情報がないとまったく分からないまま引き揚げることになるんですよね。
後になって地団太踏むことはしょっちゅうです。

■miffyさん
周辺は会社ばっかりで、飛行場跡のお話を聞くという雰囲気じゃなかったんですよ。
小心者のオイラにはムリでした。

■me-coさん
悲しい場所ですね~。
me-coさん外回りされてたんですか。
大きな公園なら見つかるんですが、小さい公園て意外と探せないですよね。

■コストさん
>シンクロニシティ
そういうことなんですかね^^
>忘れてはならない事実
仰る通りですね。現場の碑文はオイラみたいなよそ者の人間にとっては一級品の貴重な資料なので
安心して公開できる情報なんです。これからも打ち込みますよ^^

■koumeさん
確かにすぐ知覧とか鹿屋を連想しますよね。
特に九州にはものすごい数の出撃基地がありますよね。
>薬種問屋さん
どうもありがとうございましたm(_ _)m
海軍だから「報国号」ですね。

■ハイマンさん
こんなところにもあるんですね。
仰る通り繰り返してはならないことですよね。
特攻は敵兵を標的にしたものですから、一般人を巻き込むテロとの違いはそこですね。
by とり (2010-03-08 06:57) 

齋藤美智子

昨日初めて知ったのですが私の叔父満90歳都城の基地で、通信兵としていました。特攻隊の皆さんを見送ったことをはじめて語
たってくれました。
本人にとっても誰にも言えず辛かったようです。
行きたくても行けない状態なので、この写真を見せてあげようと思います。

by 齋藤美智子 (2013-02-07 13:03) 

とり

齋藤美智子さん いらっしゃいませ。
長い間心に留めていたことを齋藤美智子さんが受け止めてくれたこと、
ご本人は本当に嬉しかったと思います。
こうした場所にお邪魔するたび、こうした記事を書くたび、
戦中、戦後の方々のご苦労の上に今の我々の生活があるのだと感謝しております。
どうか宜しくお伝え下さいませ。
貴重なお話をありがとうございました。
by とり (2013-02-08 18:50) 

通りすがり

最近ここから遠縁者が出撃したことを知りました。
本人も亡くなり相手方の多くの方々をも犠牲にしたかと思うと
いたたまれません。
幼気な飛行服姿の写真にとてもショックを受けました。




by 通りすがり (2014-03-19 23:27) 

とり

■通りすがりさん
それはショックでしたね。
正直何と申し上げてよいか、言葉が見つかりません。
あちこちの飛行場跡地を回ると、どうしても戦争の影響を感じることになるのですが、
通りすがりさんのような心情の方がおられるということを思いに留め、
跡地を回ろうと思います。
貴重なお話を聞かせてくださり深く感謝致します。
by とり (2014-03-20 07:01) 

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