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旧大分空港(大分海軍航空基地)跡地 [├空港]

  2011年6月 訪問 

無題7.png

大分県‎大分市にあった「旧大分空港」。

現在は「大洲総合運動公園」になっていますが、空港の形が残ってますね。

元々は「大分海軍航空隊」として使用が始まり、終戦、接収、返還を経て大分空港になりました。

大分市街地に近く、滑走路の両端を川に挟まれていること、また「大分地区新産業都市開発計画」により、

航空旅客の需要増大に対処するための空港施設拡充、特に滑走路の延長が不可能となったため移転しました。

 

D20_0391.jpg

・A地点。 滑走路方向。

 

D20_0379.jpg

同じくA地点。

A,Bテニスコートにはさまれるように「芝生広場」があり、そこに碑があります。

「大分空港跡地」。裏面に碑文がありました。

大分空港跡地由来(全文) この公園敷地は旧大分空港の跡地でありますがその前身は旧大分海軍航空基地で戦後運輸省が第2種空港として整備し東九州の航空要路として重要な役割を果たしてまいりました その後大分空港が国東半島海岸に移転したのを機会に公園用地として国からの払下げを受けこのたび大洲総合運動公園として生れかわったものであります 
記 
昭和13年12月 大分海軍航空隊として開隊される
昭和19年 3月 大分海軍航空隊は解体され大分海軍航空基地となる
昭和20年 8月 太平洋戦争終結
昭和32年 3月 運輸省所管となり大分空港(第2種空港)として供用開始される
昭和46年10月 新大分空港は国東半島東海岸に移転
昭和48年 3月 公園用地として払い下げを受ける 
末広小華書  

 

D20_0380.jpg

「大分空港跡地」碑の隣に設置してある「神風特別攻撃隊発進之地」碑。

裏面には、「昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊はこの地より出撃せり その時 沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名左の如し」として合計18人の氏名、年齢、出身県を列記してあります。

年齢は19~23歳なのですが、先頭の人物だけ年齢が異なっており、「宇垣纏 (年齢)五五」と記されていました。

まったく知りませんでしたが艦隊司令長官・宇垣纏はここからの特攻死だったのですね。

昭和20年8月15日正午の玉音放送を聞いた後の出撃でした。

この宇垣纏の行為は、当時ですら「大勢の部下を道連れに無駄死にした」として批判を受け、二階級特進もありませんでした。

その一方で、 宇垣は「5機で出撃」と命じたものの、

部下は、11機(稼動可能な彗星艦上爆撃機全機)で出撃すると譲らず、宇垣が折れる形でこの出撃数となり、

また同型機は2人乗りなのですが、宇垣搭乗機は本来の乗員が降りようとせず3人搭乗となり、

11機、23名での出撃となったという面もあるのだそうです。

今のオイラには及びもつかない心境です。

出撃した11機のうち3機は不時着。不時着機の5名は生還したため、碑には18人の名前が刻まれました。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:大分 建設ノ年:1939 飛行場 長x幅 米:1500x1200芝張ノ内1600x200砂利敷 1500x150 主要機隊数:小型4.0 主任務:雷撃実験 作戦 隧道竝ニ地下施設:居住(8800平米)指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、工業場、倉庫、魚雷調整場 魚雷格納庫 掩体:中型有蓋4 小型有蓋12 小型隠蔽31 其ノ他記事:雷同時調整36本 同格納庫252本

D20_0007.jpg

・B地点。「富士航空機遭難の地」碑。

道路から少し緑地に入った所にありました。

裏面に碑文が埋め込まれていました。(全文)鹿児島空港から飛来した富士航空機株式会社所属コンベア二四〇型機は大分空港への着陸に失敗 此処旧裏川堤防に激突炎上した 時に昭和三十九年二月二十七日十五時三十分悲運の遭難者二十名 昭和五十年五月 裏川改修工事竣工に当り大分県建之 末広小華書

 

・C地点は旧ホーバークラフト乗り場です。

当空港閉鎖と同時に新大分空港間を結ぶ路線として開設されました。

いかに当地が利用者に便利な立地かよく分かりますね。

旧ホーバークラフト乗り場については下記リンクをご覧ください。

 

旧大分空港:map   


      大分県・旧大分空港跡地      

旧大分空港 データ

設置管理者:運輸省
3レター:OIT
4レター:RJFO
空港種別:第2種空港
所在地:大分県‎大分市‎西新地‎2丁目‎
座 標:N33°15′07″E131°37′42″
面 積:188.8ha
滑走路:
1,600mx1,500m 「日本海軍航空史」(終戦時)より
空港当時:1,080m×30m
磁方位:11/29
(座標、磁方位はグーグルアースから)

沿革
1938年12月 大分海軍航空隊開隊
1945年08月 終戦
1956年04月 極東航空 松山線開設
1956年05月 駐留軍から返還される
     07月 運輸省が空港整備に着手
1957年03月 運輸省所管となり大分空港(第2種空港)として供用開始(1,080mx30m)
1965年08月 大分県新空港建設促進協議会発足
1970年07月 新大分空港起工式
1971年10月 新空港供用開始(2,000mx45m)
1973年03月 旧空港跡地、公園用地として払い下げを受ける 

関連サイト
読売新聞/旧大分空港    
Wiki/大分空港   
国土地理院
1947年4月当時の写真(USA-M267-70)(終戦直後でほとんど更地の状態)  
1961年4月当時の写真(MKU612-C4-16)(現役時代の旧大分空港)  
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コメント 10

Takashi

玉音放送を聞いた後の特攻は知りませんでした。
今の我々だと信じられない行動ですが、当時は違ったのでしょうね。
混乱している様子が伺えます。
by Takashi (2011-11-21 12:25) 

me-co

念のため、現大分空港を探しましたが・・・
噂どおり、お門違いと称されても仕方が無いくらい違う場所ですねぇ
他に適地は無かったのかな?目の前にいる大分出身者に聞いてみよ^^;
by me-co (2011-11-21 22:23) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■Takashiさん
オイラも知りませんでした。
ビックリですね。

■me-coさん
現在の空港がなぜあの場所になったのか、オイラも非常に興味があります。
もし分かりましたら是非教えて欲しいです。
by とり (2011-11-22 06:16) 

鹿児島のこういち

宇垣纏中将の評価は戦後でもいろいろあるみたいですね。確執のあった山本長官にも最後は信頼されてますし。
by 鹿児島のこういち (2011-11-22 06:45) 

とり

■鹿児島のこういちさん
>最後は信頼
そうだったのですか。
そういう一人一人の個性、相関関係についてまったく無知です^^;
by とり (2011-11-23 05:48) 

鹿児島のこういち

宇垣中将は大鑑巨砲主義、かたや山本長官は航空艦隊主義。最初は反りが会わないのは仕方ないことかもしれませんね(^^ゞ大和型4番艦を急がせたのも宇垣中将ですから。もっとも戦艦にはならず空母に作り替え。られましたけど(^^ゞ
by 鹿児島のこういち (2011-11-23 19:01) 

春分

最後の特攻については関大尉と中津留大尉を書いた本で知っていましたが
宇垣中将は認識がなかったです。まだまだ何も知らないままです。
by 春分 (2011-11-23 20:12) 

とり

■鹿児島のこういちさん
>大鑑巨砲主義
そこからして違うのですか!
それじゃあ難しいですね。

■春分さん
>関大尉と中津留大尉
オイラはそこから初耳です。
まだまだまだまだ何も知らないままです。
by とり (2011-11-24 06:09) 

sak

8月15日に特攻あったのですね
全然知りませんでした
どうして???って気がするけど
その時はそんなこと関係なかったのでしょうね
by sak (2011-12-05 14:36) 

とり

■sakさん
最初はてっきり終戦の知らせが間に合わずの出撃かと思っていました。
オイラには及びもつかない心境です。悲劇ですね。
by とり (2011-12-06 20:39) 

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