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音更飛行場跡地 [├空港]

  2010年6月、2016年7月 訪問 

D20_0044.jpg

音更町生涯学習センター前にある「音更飛行場跡」の碑。
(2015/4/7追記:ストリートビューで確認したら碑が立て替えられており、側に説明版も設置されていました)

北海道河東郡にあった「音更飛行場」についてはこれまでほとんど情報がなくてナゾの飛行場の1つだったのですが、

数年前にまとめられた「まぼろしの音更飛行場」という冊子を地元図書館で閲覧することができましたので、

おおよそのところを紹介させていただきます。

 

1924に士幌線敷設工事で音更村を訪れていた主任技師・加藤は、

「音更に飛行場をつくろう」と地元有力者に盛んに話を持ちかけました。

結局この時は賛同を得ることができなかったのですが、

けしかけられた音更青壮年有志は決起して立上がり、「音更飛行場設置期成同盟」を結成しました。

(別の資料では「1917年に帯広で行われたアート・スミスの曲乗り飛行を見て刺激されたのがきっかけで発会した」と記されている)

医者の有田喜代平を会長に東条清、小高春雄、成瀬清太郎、堀英一といった面々が集まりました。

これが帯広市のすぐ北にある音更村(現・音更町)に、「関東以北初の民間飛行場」を開設するきっかけとなりました。

「音更飛行場設置期成同盟」は紹介を頼りに1925年3月3日、千葉県津田沼の伊藤飛行機製作所を訪問しました。

初対面だったにもかかわらず、伊藤音次郎所長より、

アプロ式504K型機、指導操縦士、飛行場専属の操縦士提供の話がまとまりました。

4月24日、整備を終えた機体は解体して貨車に積まれ、津田沼を出発。28日、青森着。

5月4日帯広到着。自動車に積み替えてその日のうちに音更村到着。同行した機関士により組み立てが開始されました。

そして千葉県津田沼から東亜飛行専門学校(伊藤飛行機製作所から飛行部門を分離したもの)の校長と操縦士が到着しました。

両氏は早速滑走路を視察しましたが、雑木林を村の青年たちが切り開いて踏み固めた畑地のような黒土で、

地盤の柔らかさに不安を覚えました。

13日には開場式が行われ、来賓300人、観衆は10,000人(同年音更村の人口は11,002人)でした。

初飛行のため滑走を開始しましたが、懸念していた通り滑走路が柔らかく、なかなか浮揚速度に達しないため途中で離陸中止。

当時のヒコーキにはまだブレーキがありませんでした。 機は雑木林に主翼がバサバサと触れてやっと停止。

この状況で操縦士の機転がすごいです。

できるだけたくさんの見物人をヒコーキの周りに集め、飛行原理を解説。

「皆さん、これから飛行機を前方に動かし、同時に後ろの方の人は前の方にいた方と交代してくださいませんか」

と言い、少しずつ移動させて説明し、とうとう130mの着陸場を往復させてしまいました。

ヒコーキというものに少しでも触りたい思いでいた観衆は喜んで協力したため、

少しの苦労もしないで、黒土が存分に踏み固められました。

この間約1時間を費やしましたが、おかげでこの後無事初飛行に成功しました。

この初飛行を以て、「音更飛行場設置期成同盟」は、「北海道義勇空防団」に改称しました。

開場式で初飛行を行ったのは、東亜飛行専門学校の教頭である永田一等飛行機操縦士で、

最初に音更飛行場の専属操縦士となったのは、石川二等飛行機操縦士でした。

津田沼から10日かけて運んできたアプロ機は1913年~1918年までに9,000機も作られた傑作機なのですが、

搭載するル・ローンエンジンは、それ自体が回転する特異な構造をしており、取り扱いが面倒で故障が多く、

「優秀機であるが、エンジン特製を熟知した機関士がついていないと性能を発揮できない」と称されたヒコーキでした。

 

最初の専属飛行士となった石川は取り扱いの難しいアプロ機を持て余し、エンジン故障に悩まされ続けた揚句、

9月19日、エンジン不調により神社裏の雑木林に墜落大破、一時人事不省に陥ってしまい、その後音更を去りました。

これを機に、「北海道義勇空防団」は解散し、「北海道飛行協会」と改称する旨の届け出をします。

10月、新たに同型機が津田沼から到着。平井操縦士と機関士見習も揃って着任しました。

10月22日 「北海道飛行協会」認可。

12月10日 国鉄士幌線開通祝賀会があり、音更飛行場からアプロ機も参加することになっていました。

ところがまたしてもエ ンジン不調で離陸直後、神社裏の雑木林に突っ込み大破。

幸い飛行士は無事でしたが、あまりにエンジン不調が続くので平井操縦士は協会に対し、

「航空機エンジンに慣熟した機関士を雇って欲しい」と提案しました。

実は二度に渡る不時着大破で、赤字の累積が既に14,000円にもなっており、

協会としては平井操縦士にも見切りをつけたい思いだったのですが、

給料もまったく支払っていない状況であり、こちらから首にするということは出来かねる実情でした。

それだけに素直に平井操縦士の提案を受け入れ、優秀な機関士がいたら雇うことになりました。

協会は今一度、賭けてみることにしたのです。

1926年早々に東條専務と平井操縦士はそろって上京し、機関士を探しに日本飛行学校へ。

ここで函館生まれの上出松太郎と出会いました。

彼は横須賀海軍航空隊で機関術教員を務めていましたが、兵役を終え民間の飛行機操縦士を目指していた26歳の青年でした。

上出機関士としては出来ることなら民間航空の中心地である立川か津田沼に行きたかったのですが、

故郷からの熱心な懇願を受け、これに応じます。

更にこの年、陸軍当局へ新たなヒコーキの貸与折衝と、認可申請中の「音更飛行場」の許可促進にも本腰を入れました。

その結果、4機と岡崎飛行士が一挙に到着しました。

これで修理中の1機と合わせて5機となり、同時に飛行場の許可も下り、9万坪だったのを12 万坪(40ha)に拡張しました。

しかし、もともと陸軍の支援は航空思想普及が狙いであり、飛行協会には維持管理する財源がありませんでした。

故障が出ても修理がおぼつかない状況でやがて飛べるヒコーキがなくなったことで、この年の秋、飛行士は去ってしまいました。

 

上出機関士が来村した時、飛行可能なヒコーキは1機もなく、

会長の「来年また飛行機を買い、飛行士を雇って再起する」という言葉を信じ、ただひとり格納庫へ通い整備に精を出しました。

しかし、整備されても飛行士を雇う話がありません。

翌1927年、「私に試験飛行をやらせてほしい」と願い出ますが、「危ないからやめてくれ」と断られました。

そこで彼は無断飛行を決行します。

無事着陸ができると、それ以降協会からあちらへ飛べ、こちらへ飛べと言われ、

飛べる嬉しさいっぱいで言われるまま飛び回ったのでした。

その後上出機関士は操縦士の資格を取り、晴れて正式な操縦士となります。

以降飛行注文が殺到して十勝管内はもとより、札幌、函館、釧路、千島などへ飛行しました。

時々不時着して機体を壊してしまいますが、当の本人はケロッとしており不死身でした。

しかしその後、飛行場運営に尽力してきた人たちが様々な事情から去って行き、他の役員たちはすべて逃げ腰で、

1928年の初めには、会長と上出飛行士の2人で協会を守っているという有様でした。

とうとう老朽化したアプロ機の堪航証明の期限も切れ、飛行できなくなってしまいました。

そこで上出名義で別のヒコー キの払下げ申請をしました。

やがてアプロ式504型機の払下げ通知が届き、上出飛行士が静岡県浜松の福長飛行機研究所まで受納に向かいまし た。

払下げの金額は百円でしたが、上出は所長に「私を二か月間ここの研究所の臨時従業員として働かせて下さい」と申し出ました。

所長はこれをあっさりと承諾してくれました。

こうして1928年6,7月の2ケ月間働いただけで新品同然のアプロ式504型機1機を自分のものにすることができました。

次にこのヒコーキを費用を掛けずに音更飛行場まで運ばなければならないのですが、自分で空輸するしかないと決心します。

本来は各県の警察署に飛行許可願いを出さなければならないのですが、とても面倒なことであり、

無許可で飛ぶことにしました。

霞ヶ浦、仙台、盛岡、函館の練兵場の戦友に、予め手紙で頼んでおきました。

各練兵場の戦友たちは、 「ガソリンとカストル油(アプロ機用の特殊なオイル)を積めるだけ積んで行け」と、

給油に協力してくれました。

浜松~音更の実飛行時間は14時間余りでしたが、故障が多く非常に手のかかるル・ローンエンジン搭載機で

これほどの長距離飛行をしたのは後にも先にも彼だけでした。

この無許可長距離飛行の一件は、後に航空局技術課長、航空官等に知られるところとなったのですが、

何の処罰を受けることもありませんでした。

こうして1928年8月、音更飛行場に新しいアプロ機が到着し、再び各地からの求めに応じて飛び回りました。

しかしこの時には飛行場の格納庫は既に売却され、北海道飛行協会は実質上活動を停止していました。

人手に渡った格納庫をそれとは知らず使用している上出飛行士に会長は言いそびれてしまったらしく、

また買い取った人も一言も言わなかったので、上出飛行士は協会のものと思い込んで使用していました。

上出飛行士の献身的な努力にもかかわらず、協会の財政は1928年秋には既に極限に達していました。

1929年に入り、格納庫が人手に渡ったことを人伝えに聞いた上出飛行士は、

「もうこれ以上ここにいては会長や村の人たちに迷惑をかけるだけだ」と考えます。

ちょうどその頃、北海タイムスから上出に対し、

「当社のパイロットとして入社しないか」との誘いがあり、会長に相談の上、新聞社に入社することにしました。

1929年5月22日、愛機の後部座席に家財道具を積み込み、会長他村人たちに見送られて 札幌に向かったのでした。

まだ自動車さえ珍しかった当時のこと、 

こうして1925年5月に開場した音更飛行場は、4年間で幕を閉じたのでした。


D20_0042.jpg

碑の裏側:「大正十四年五月、 関東以北初の民間飛行場場として開設 昭和四年春の閉鎖まで、アプロやニューポールなどの複葉機で、上出松太郎飛行士らが活躍しました。」

 


2016/9/29追記:碑が新しくなったため、またお邪魔しました。

DSC_0141.jpg

碑の裏面には、「音更町教育員会 平成二十四年十月」とあります。

DSC_0142.jpg

説明が詳しくなりましたね。

音更飛行場:map  


      河東郡・音更飛行場跡地      

音更飛行場 データ

設置管理者:北海道飛行協会
空港種別:陸上飛行場
所在地:北海道河東郡音更町希望が丘1
座 標:N42°59′27″E143°11′45″
滑走路:130m×20m
面 積:40ha(拡張後)
*座標はグーグルアースにて算出

沿 革
1925年03月03日 伊藤飛行機製作所より、機体、指導操縦士、飛行場専属の操縦士提供の話がまとまる
      05月04日 機体が帯広到着。その日のうちに音更村到着。組み立て開始
      05月13日 音更飛行場開場式
      09月19日 エンジン不調により墜落大破事故
      10月     同型機が津田沼から到着
      12月10日 エンジン不調により墜落大破事故
1926年?        上出松太郎機関士着任(後日操縦士免許取得)
1928年08月     新たな機体を空輸し、飛行再開
1929年05月22日 厳しい財政事情から上出飛行士は転職。飛行場閉鎖

関連サイト:
音更町史      
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この記事の資料:まぼろしの音更飛行場


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コメント 12

鹿児島のこういち

すげー(O_O)
上出松太郎機関士(飛行士)は、最高の「ボッケモン」ですね!
無許可、長距離飛行。墜ちたらどうしようとか思わなかったんですかね?

当時は、飛んでる飛行機自体が少ないから、何とかなったんでしょうかf^_^;
by 鹿児島のこういち (2010-09-03 06:17) 

sak

上出飛行士、すごい方ですね
そしてその上出飛行士を取り巻く方々も素敵で
規則や形にとらわれる人たちばかりではなく
こんな方々がいたから日本の航空業界の発展にもつながったのでしょうね
by sak (2010-09-03 08:23) 

guchi

こういちさん、sakさんと同じく
上出機関士(飛行士)の飛ぶ情熱に大感動しました。
ホント すげ-(〇_〇)ですね!
by guchi (2010-09-03 12:24) 

an-kazu

へぇー、そんな歴史がΦ(・_・)メモメモ

しかも津田沼と繋がっているとは!
by an-kazu (2010-09-03 21:32) 

まめ助の母

1年で2回も墜落…壮絶ですね
そんなに機体が扱いにくかったですかね?
整備が不良だったんですかね?
by まめ助の母 (2010-09-03 21:59) 

春分

それ自体が回転する特殊なエンジン?また、むちゃなものを。
それにしてもまた、面白い歴史を。
by 春分 (2010-09-04 17:42) 

さーやん

北海道に来ているんですか?
札幌の円山動物園にも寄って下さい
私、明日は午前中ボランティアで
クマチカ・・エリアにいます
by さーやん (2010-09-04 18:06) 

me-co

かなり昔のお話ですが、夢物語ですね・・・
@@;現在の地名が「希望が丘」!
違う場所ですが、以前、私が住んでいた地名と同じ!
なんか感激します(・。・)
by me-co (2010-09-04 18:45) 

雅

車すらまだ普及していない時代、それだけ情熱を注いで飛行場を作ったんですね。
頭が下がります。
by (2010-09-04 20:39) 

ハイマン

これは確かに昔の話ですね~
とりさんの情報シース何処で仕入れるか
すごーく興味あります^^

by ハイマン (2010-09-04 23:43) 

tooshiba

音更の先人の情熱は大したものでありました。
そして現代のとりさんの情熱もまた、大したものであります。(`・ω・´)ゞビシッ!!
by tooshiba (2010-09-05 01:34) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■鹿児島のこういちさん
>最高の「ボッケモン」
調べて初めて知りましたが、まさにピッタリの表現ですね。
リスクのことは仰る通りですよね。
協会の財政状況が厳しいということは重々承知でしょうから、
「運ぶためにはこれしかないのだ!!」という思いだったのかなぁ、と勝手に想像しました。

■sakさん
>取り巻く方々
そうなんですよね。飛行士1人が熱くてもダメですからね。
道民の助け合いの精神、温かさ。ということなのでしょうか。

■guchiさん
ホント、すげー! ですね。
昔のヒコーキ運用って、きっとこういうエピソードがたくさんあったのでしょうね。

■an-kazuさん
>津田沼
大戦中の千葉県が要塞化されたことに目が向きがちですが、
航空黎明期の千葉県もすごく重要な場所だったのですね。

■まめ助の母さん
>墜落
エンジンがものすごく扱いにくかったのだそうです。
だから熟練の整備士がいないときちんと飛ばせなかったらしいですよ。

■春分さん
スゴイこと考えますよね^^;
冷却効果、軽量化ができたのだそうですが…。

■さーやんさん
すみません、これ六月に行った。という話なんですよ。m(_ _)m
ボランティア、頑張ってください^^

■me-coさん
「希望が丘」に住んでおられたのですか。
こういう類似点があると、一気に親近感湧きますよね^^

■雅さん
仰る通りですね~。
ホント、すごいことです。

■ハイマンさん
仕入先はですね、ひとえにネット様のおかげです^^

■tooshibaさん
べっ、別に嬉しくないんだからねっ!
協会の経済感覚その他甘さについての言及がたくさんあると思っていたのですが、
ここまで皆さんtooshibaさん仰る情熱を評価するコメントばかりですね。
みんなロマンチストですね~(o ̄∇ ̄o)
by とり (2010-09-05 08:56) 

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