So-net無料ブログ作成
検索選択

相馬飛行場(田鶴牧場、伊久留飛行場)跡地 [├空港]

  2010年7月 訪問 

相馬c.png

石川県七尾市‎伊久留町‎(いくろまち)にあった「相馬飛行場(田鶴牧場)」。

「伊久留飛行場」とも呼ばれていたそうです。

上の図は現地に展示してある地図と1947年の航空写真(下記リンク参照)を参照して作ったものです。

オレンジ線は、「飛行場はおおよそこの範囲内であろう」。という程度のもので、

その中のグレーの長四角は、板張り滑走路(600m)のおおよその位置です。

 

「田鶴浜町史」456~458pに「相馬飛行場建設」という項目があり、

「太平洋戦争も敗戦の色濃く、二ヶ月後に終戦を迎えようとする昭和二十年、本土決戦を最後の手段と考えた軍部は、突然当町伊久留の地に海軍航空隊、相馬飛行場建設に来村した」

と記されています。

当時不足していたコンクリートの代用品として、 松、杉板材が使用されたそうです。

「板敷」というのもそうですが、滑走路が微妙に湾曲しているのが非常に気になります。 

滑走路の長さは1,200mと記されているのですが、オレンジ線の範囲を最大に使って1,350mです。

 

D20_0040.jpg

A地点。

「相馬飛行場跡  昭和二十年、相馬国民学校を飛行場設営隊本部とし、学校に平行して長さ一、二〇〇メートル、幅五〇~一〇〇メートルの滑走路をもつ飛行場が八月十四日に完成したが八月一五日に終戦をむかえ、一度も利用されることなく取り壊された。田鶴浜町」

終戦の前日に完成したのですね。。。

 

D20_0044.jpg

同じくA地点。

左側の黒い説明板全文 「本土決戦が焦眉に迫った昭和二十年六月 突如この地に海軍の秘匿飛行場の建設が始められた。その名も「田鶴牧場」と称し 田植え直後の田を幅約百メートル 長さ千二百メートルに亘って埋立て その上に厚板を敷き並べて滑走路としたものであった。建設作業は小松海軍航空隊の予科練生、同軍設営隊、朝鮮出身労働者等数百人の並々ならぬ労苦と、近郷各種団体の度重なる勤労動員によってなされた。幸い 完成と同時に終戦となり戦禍は免れたものヽ いま多くの犠牲と戦争の罪過に思いを致すとき この事実が風化されることなく語り継がれ平和が永続することを願いこの碑を建てる。平成十五年三月」

 

D20_0046.jpg

右側のケースの中に滑走路に敷いた厚板と釘?と地図が展示してありました。

この厚板は2002年に地元の民家から見つかったものらしいです。

厚さ6.3cmで、迷彩模様に塗ったコールタールが杉板の表面に残っているのだそうです。

 

D20_0036.jpg

B地点。この辺は板敷き滑走路だったはずです。

 

相馬飛行場(田鶴牧場):map  


      石川県・相馬飛行場(田鶴牧場)跡地      

相馬飛行場(田鶴牧場) データ

設置管理者:旧海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:石川県‎七尾市‎伊久留町‎(いくろまち)
座 標:N37°01′43″E136°53′24″
滑走路:1,200m×50~100m
磁方位:04/22?
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿 革
1945年06月     着工
1945年08月14日 完成
1945年08月15日 終戦

関連サイト:
国土地理院 1947年11月当時の写真(USA M631 38) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   


コメント(15)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

コメント 15

鹿児島のこういち

地図のオレンジ線は、よんごひんご※ですねf^_^;板敷の部材が残ってるんですね。僕ら現場では敷板っていいます。湿地や水気の多い地盤では、松板や松杭を敷板や土留めに使います。腐りにくく長持ちです。
コールタールは防腐、防蟻に使ったのでしょう。一昔前の木造の外壁は、耐火処理(モルタル塗りなど)されていない木壁で、コールタールが塗布された家屋が多かったです。
写真の金具は、釘というより、かすがいではないでしょうか?
ちなみに、鹿児島の枕崎には、板敷集落がありまして、友達に板敷さんっています(^O^)

※よんごひんご
鹿児島弁で、くねくね、ギザギザ、まっすぐしていないって意味です(^0^)/
by 鹿児島のこういち (2011-04-18 13:51) 

koume

板張りの滑走路!!
そんなものまであったとは~ビックリしましたw
終戦の前日に完成って皮肉ですね…使われないに越したことはないですが。
by koume (2011-04-18 14:01) 

まめ助の母

いつもいつも…
敗戦色濃くなってから
飛行場がたくさんつくられて…
使われないまま…

ってそんな気がしてなりませんね…
by まめ助の母 (2011-04-18 22:02) 

miffy

板敷きの滑走路って離着陸し辛そうですけど・・・
コールタールを塗ってれば滑り止めになるんですね。
by miffy (2011-04-19 18:16) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■鹿児島のこういちさん
松は水に強い…と。φ(..)メモメモ
写真の金具は確かに両端が曲がっていて、かすがいかもしれないですね。
プロのご意見いろいろとありがとうございますm(_ _)m
>よんごひんご
鹿児島の方言も面白いものがいろいろありますね^^

■koumeさん
本当にいろんな滑走路がありますね~。
予定では七月に別の材料を使った飛行場をアップします^^

■まめ助の母さん
仰る通り、そんなパターンの飛行場が多いですね~。

■miffyさん
>板敷
実際のところどうなんでしょうね??
パイロットもこういう所は怖いんでしょうか。
by とり (2011-04-20 06:27) 

コスト

板敷きも気になりましたけど、紙飛行機大会に目がいきました(笑)
それも平成15年の看板がそのままってw^^;
七尾ってけっこうな距離ですね、おつかれさまです☆
by コスト (2011-04-21 20:31) 

コスト

>一度も利用されることなく取り壊された
8/14ってもうUNにポツダム受諾の通知して、世界では日本の降伏が
伝えれ始めた頃に完成って、それは使われないですよね^^;
終戦近くなって工事する頃にそれほど戦闘機が残っていたんでしょうか?
本土決戦用には残してあったそうですが。
by コスト (2011-04-21 20:44) 

とり

■コストさん
>平成15年の看板
第二回はあったんでしょうか??^^;
8/15は国民に終戦を通知した日ですからね。
それでも例えば当時の海軍厚木基地には、
一線級の戦闘機が数百機、数年分の武器弾薬食料があり、
「まだまだやれる! 負けなど認めん!!!」ということになってしまいました。
by とり (2011-04-22 08:02) 

NO NAME

私は予科練、相馬飛行場を作りました。トロッコで。途中の小川に何回もトロッコごと落ちました。数年前予科練の会も相馬飛行場跡でやりました。記念碑を作った町長さんに敬礼です。個人でも、懐かしく田鶴浜駅からタクシーでぐるぐる回ってみました。
by NO NAME (2011-07-30 10:02) 

鹿児島のこういち

NO NAMEさんの当時の貴重なお話、もっと聞きたいです。
トロッコごと落っこちるって、凄すぎないですかw(゚o゚)w
by 鹿児島のこういち (2011-07-30 22:07) 

とり

■NO NAMEさん
貴重な情報をありがとうございますm(_ _)m
今でもつながりがあるのは素晴らしいことですね。

■鹿児島のこういちさん
こうして時々鹿児島のこういちさんのような方が現れて下さるというのは本当にありがたいことです。
板敷という非常に珍しい滑走路建設の話、オイラももっとお聞きしたいです。
by とり (2011-07-31 07:12) 

 国民学校生 I 

 私は相馬飛行場建設時の昭和20年、相馬国民学校4年生として在校していました。飛行場建設隊、航空機の乗員となる予科練兵隊がほぼ同時期に来村、学校のかなりの部分は軍に接収され私たちは校舎の一部やお寺へ出かけたりして勉強していました。当時は極度の食糧不足で運動場は畑になり、また学校に近い傾斜の緩い山地も畑にしていました。私たち相馬国民学校の初等科3年生(現小3年生)~高等科2年生(中2年生・最高学年)は先生に引率され、毎日のように校地の畑、山の畑にに出かけ、サツマイモやジャガイモなどを手入れをししました。ですから、勉強らしい勉強はほとんどできませんでした。滑走路に敷かれた木の板は戦闘機やトラックの重さに耐えられるような厚さが6~7センチメートルほどのもので、滑走路に敷いた後、その上に迷彩色が塗られました。飛行場の周りの入り込んだ山地には洞窟「トンネル」が掘られ、軍の非常用の味噌、米などが蓄えられていました。児童たちは早く戦闘機がやってくることを心待ちにしていました。しかし、戦闘機が一度も滑走路に降りることなく終戦になりました。当時の滑走路は水田に復元され、当時を様子をしのばせるものは何も見当たりません。当時の滑走路の縁にあたるところを田鶴浜と能登海浜道路上棚ICを結ぶ道路が設けら、自動車のなかった昭和20年当時には想像もできなかった自動車が次々と走っています。終戦が1945年、ことしは2012年、67年の年が流れました。

  ・当時の様子は飛行場のあった伊久留(いくろ)地区が編集発行した
   「伊久留史」にかなり詳しく書かれています。


by  国民学校生 I  (2012-10-24 21:35) 

鹿児島のこういち

国民学校生 Iさん、当時の詳しい状況を読ませていただき、ありがとうございました。もしかして以前投稿されたNO NAMEさんですか?
うちの母も戦時中、学生時代に鹿屋航空基地に炊き出しに行っていたそうです。畑で採れた作物は町に売りにでかけ、自分達は残りの芋のツルや葉っぱを食べていたそうです。小さい体に薪や野菜を背負って売りにでかけてたそうです。
今思えば、とんでもない苦労をしてたのだと思ってしまいますが、当時はこれが当たり前だったそうですから、人の意識も変わっていくのだなと感じました。
by 鹿児島のこういち (2012-10-25 08:42) 

国民学校生 I 

鹿児島のこういちさん、私の国民学校在校時の様子をお読みいただいてありがとうございました。投稿は初めてですので 「NO NAME」さん ではありません。 「NO NAME」さんは予科練兵で、滑走路作りなどの作業をされていたようですから国民学校4年生の私たちが毎日眺めていた予科練兵さんだと思います。滑走路作りにトロッコで砂を取り出した山の地肌や 「NO NAME」さんが転落したと書かれた幅3~4mの川 は今も見ることができます。母上が食べ物などでご苦労された様子、私たちの能登でも同じでした。ご飯には大豆、大根、サツマイモ、山菜・…等々を入れて炊き、コメの消費を少なくしていました。農家は割り当てられた米の量を供出しなければなりませんでしたから大人たちは大変だったと思います。戦時体験のない今日の人たちには想像できない状況でした。豊かになった今日、先人たちの苦労の歴史を伝えていかなければならないと思います。
by 国民学校生 I  (2012-10-25 13:52) 

とり

■国民学校生 Iさん いらっしゃいませ。
当時の様子を知ることが出来ました。
どうもありがとうごさいました。
by とり (2012-10-26 05:18) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL: