昭和飛行場跡地 [├空港]
2010年3月 訪問
東京都西部の昭島市
立川駐屯地と横田基地にはさまれるようにして「昭和飛行機工業」の工場と飛行場がありました。
上の図はおおよその滑走路の位置です。
ところで突然ですが、「日本が戦時中に作ったヒコーキ」、いくつ挙げられますか?
オイラはどこからどう見ても、まあ平凡な一般人なわけですが、
すぐに思いつくのは「零戦」と「隼」と「二式大艇」くらいです。
これでも一般人としてはよく頑張った方でしょう。
「日本が戦時中に作ったヒコーキ」で「零戦」等、戦闘機を挙げる人はいても、
「輸送機」を挙げる人はまずいないのではないでしょうか。
「昭和飛行機工業」設立当時、日本はすでに欧米に匹敵する優秀なヒコーキを制作していたのですが、
輸送機の分野が大きく立ち遅れていました。
本格的な輸送機を欲していた海軍は1937年(昭和12年)2月、三井物産を経由して
「永遠の傑作機」アメリカのダグラスDC-3の製造権を獲得しました。
真珠湾攻撃の4年10ヶ月前のことです。
余談ですが、海軍は1939年10月にもDC-4Eを製造権込みで購入(日本航空輸送がダミー契約)しています。
こちらは真珠湾攻撃の2年2ヶ月前。
なのでDC-3の時点ではまだまだセーフでしたが、もう少しタイミングが遅れたら、「日本でDC-3を作ろう」なんて、
海軍が言いだすことも、ダグラス社が製造権を与えることもあり得なかったんでしょうね。
製造権を獲得した海軍は、同年6月に設立したばかりの「昭和飛行機工業」にこのDC-3の製造を行わせることにしました。
(後にDC-2ライセンス制作の実績がある中島飛行機にも作らせてますけど)
「昭和飛行機工業」は当地に工場と飛行場を備えた「東京製作所」を建設します。
そして会社設立翌年の1938年3月、航空機の製造を開始しました。
会社の通勤者の便のため、青梅線に新駅の認可をもらい、
昭和飛行機が駅舎用地を提供、建設費を一部負担する形で「昭和前駅」(現在の昭島駅)が開設されました。
昭島駅ってそういう背景でできた駅だったのですね~。
DC-3の国産化は困難を極め、実現に3年の月日を費やしました。
当時の軍用機は採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっており、
昭和飛行機が製造したDC-3が海軍に制式採用されたのは1940年(昭和15 年)、皇紀2600年だったため、
同じ年に採用になった三菱の艦上戦闘機と同じく、「零式輸送機」となりました。
そして昭和飛行機は終戦までにこの零式輸送機を430機製造しました。
同じ年に採用になった戦闘機と輸送機は、共に戦争末期まで主力機でした。
余談ですがアメリカでは、「勝利に貢献した三大役者はジープ、ブルドーザー、そしてDC-3である」
なんて言われているのだそうで、
敵同士なのに飛び回っている輸送機は同じという状況だったのですね。
もっとも、日本が中島飛行機社製と合わせて486機だったのに対し、アメリカでは1万機以上生産されてますが。
昭和飛行機の航空機生産は輸送機が中心でしたが、他にも九九式艦爆や紫電改などのライセンス生産も行っており、
製造総数は800機以上に達しました。
そして1945年終戦。飛行場地域が接収されます。
航空機事業が禁止され、会社存続をかけて事業の多角化を図ることとなりました。
解禁後の1957年(昭和32年)から始まったYS-11、C-1計画にも参加し、分担生産を行っています。
1969年8月 飛行場地域返還(接収施設全面返還)
航空機製造で培った高い技術力を活かし、現在でも航空装備品、航空機機体部品やジェットエンジン部品などの製造を行っており、
開発中の次期輸送機C-X、次期哨戒機P-X でも分担生産に参加しています。
また、国内唯一のハニカム総合メーカーである他、タンクローリ-、バルク車等の特装車製造も行っています。

滑走路があった部分は現在北側がゴルフ場、南側が団地になっています。
これは当時滑走路があった団地部分。

一番最初の地図の・A地点のあたりでこんなものを発見しました。写真右端に説明板があります。
新昭和通(全文) この道路は、「新昭和通」と呼称し、昭島駅北口の十字路から北へ進み、ゆるくカーブをしながら「フォレスト・イン昭和館」の南東角にある十字路に至る、全長594m・幅員16mの道路で、「昭和館」の建設に合わせて、全額昭和飛行機の負担で新しく築造され、昭島市に寄贈されたものであります。この工事は、道路用地にかかわる工場敷地内の建物等の移転と並行して、平成8年10月に着工、18ヶ月の工期を経て、平成10年4月17日開通しました。昭和12年の昭和飛行機創立当時、当社は機械設備等の搬入のため、旧奥多摩街道から諏訪神社脇を北上し宮沢地区を経て旧工場正門に至る、延長約2km・幅員11mの道路を当社の負担で新設し、地元に寄贈しました。その道路は、「昭和通」の名で、広く人々に親しまれていましたが、道路築造に合わせて当時建立された「昭和通」の石標は、年を経て散失してしまいました。しかしながらその後、地元有志の熱意により、昭島駅南側の宮沢町1丁目1番5号(株)カトービルドシステム前にこの石標は修復再建され今日に至っております。当社ではこれに呼応して、このたび昭島駅北側に新設した道路を「新昭和通」と称し、南の昭和12年当時の「昭和通」の石標と同型、同寸法の「新昭和通」の石標をここに建て、南北両道路ともども永く人々の記憶に留まり、また広く活用され親しまれることを念願するものであります。 平成10年4月吉日 昭和飛行機工業株式会社(・B地点:昭島駅南側の石標位置)

昭和飛行場跡地
東京都・昭和飛行場跡地
昭和飛行場 データ
設置管理者:昭和飛行機工業
空港種別:陸上飛行場
所在地:東京都昭島市つつじが丘1丁目
座 標:N35°43′10″E139°22′11″
滑走路:1,120m×350m
磁方位:01/19
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出
沿革
1937年6月 昭和飛行機設立
1938年3月 東京製作所(東京都昭島市田中町所在)にて航空機の製造を開始
1969年8月 飛行場地域返還(接収施設全面返還)
関連サイト:
昭和飛行機工業株式会社→■
Wiki/昭和飛行機工業→■
Wiki/DC-4E→■
Wiki/DC-3→■
この記事の資料:
極上旅客機伝説!







「昭和飛行機工業」でのDC3ライセンス生産
知りませんでした。とっても勉強になりました。
今だに何処かで飛んでいる名機ですね。
そういえば一昨日、ゴルフの今田選手に会いました。
by guchi (2010-06-05 10:25)
戦争中...零戦しか知りませんでした
いろんな飛行機が作られていたのですね
いつかまた日本製の飛行機が
たくさん空飛んだら楽しいだろうなぁ
by sak (2010-06-05 10:28)
零式輸送機、知ってはいましたが製造先は知りませんでした。
紫電改も造ってたんですか?ここでは21型だったんでしょうか、それとも21型甲でしょうか?
紫電改と言えば、川西航空とばかり思ってました。
こういう歴史があるとは、勉強になりました(^O^)/
by 鹿児島のこういち (2010-06-05 12:15)
第二次大戦の戦闘機でさえもWikipediaの戦闘機一覧の約20の内7つしか
知りませんでした。見ずに思い出せたのは5つだけでした。輸送機はぜんぜん。
by 春分 (2010-06-05 17:09)
零戦の由来、初めて知りました。
戦前の日本は、飛行機等を作る技術はあってもその飛行機を飛行場まで運べる道がなかった、というのを聞いたことがあります。
by 雅 (2010-06-05 19:31)
昭島にも飛行場(工場に併設)。
住宅開発の進んだ今では考えられませんが、昔は原野か畑か、人がろくに住んでいなかったから作れたのでしょうね。
今回も秀逸な記事でした。m(_ _)m
by tooshiba (2010-06-05 21:27)
>まあ平凡な一般人なわけ・・・
もはや何も触れないでおきます・・・(^^);
by an-kazu (2010-06-05 21:48)
戦時中に作った飛行機・・・
私にはさっぱりわかりませんが作る目的が戦争ってのは
悲しい気持ちになりますね。平和な今が幸せに感じます。
by masa (2010-06-05 21:48)
知ってるのは零戦と紫電改だけです。
戦争がなければ日本の航空業界はもっと大きくなってたのでしょうね。
by miffy (2010-06-05 22:04)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。
■guchiさん
未だに飛んでるってのがすごいですね!(@Д@)
>今田選手
おお、すごい!
観戦されたんですか?^^
■sakさん
日本のヒコーキがたくさん飛んだら・・・楽しいでしょうね~。
■鹿児島のこういちさん
>型
調べてみたのですが分かりませんでしたm(_ _)m
鹿児島のこういちさん、オイラなんかよりよっぽど詳しいですね~。(@Д@)
■春分さん
>7つ
一般人のオイラは春分さんの足元にも及びませんm(_ _)m
■雅さん
>道がなかった
もしかしてコレのことでしょうか?
ttp://www.tante2.com/zerosen-ushi.htm
■tooshibaさん
確かに今現在の周辺の様子など見ると隔世の感がありますね~。
■an-kazuさん
あれれ~???(o ̄∇ ̄o)
■masaさん
>平和な今
仰る通りですね~。
■miffyさん
>なければ
ifの世界についてはいろいろ考えちゃいますね~。
数少ない企業に牛耳られているだけに。
by とり (2010-06-06 09:30)
バルク車、ローリー車・・・と、泥除けの「昭和飛行機」を見る度に「?!」と思っていましたが、歴史的背景なるほどです。新明和といい特装車に進出したのは、「技術の余裕」と「瀬に腹は替えられない」といったところでしょうか?
by me-co (2010-06-06 23:51)
■me-coさん
>特装車
ここに反応があるとすれば絶対me-coさんだと思ってました^^
>といったところ
そんなところだと思います。
by とり (2010-06-07 06:13)
私の住んでいる所は昔滑走路だったんですね。
昭和飛行機の社史を読んできました。
昭島駅前は野球場・サッカー場・軍用犬練習場だったそうです。
ゴルフ場だけが現在残ってます。
地図がありましたので、エスパは野球場と現在との比較が出来ました。
勝手に接収して、工場地を娯楽施設にしてしまうのですら、戦争に負けるということの意味が分かりました。こうしたことは昭和飛行機の社史しか掲載されておらず全て歴史から消えてしまいました。
by casablanca (2010-07-21 23:18)
■casablancaさん
返事遅れてすみませんm(_ _)m
コメントありがとうございました。
by とり (2011-02-27 15:38)
私は昭和20年3月から6月までその飛行場でDC3零式輸送機の離着陸飛行訓練をしていました。85歳の今でも当時の記憶は忘れることがありません。6年前に一度玉川上水に沿って歩きましたが面影はなく本日位置の確定を知ることができました。有難うござく感謝しております。
by 中谷 四郎 (2012-02-24 09:07)
海軍は厚木航空隊から兵員を派遣して零式輸送機の受領検査と輸送を任務として、滑走路を使用していました。玉川用水南の敷地に建つ工員宿舎1棟を借り受けていました。厚木では訓練ができなくなり次の作戦に間に合わせるため5名の輸送機操縦員と整備員の養成が急がれ毎日訓練に励みました。7月から松島、千歳、美幌基地に移り特攻訓練を行い8月15日を迎えました。当時の写真をお持ちの方是非お知らせ願います。
by 中谷 四郎 (2012-02-24 19:32)
■中谷四郎さん いらっしゃいませ。
生産した輸送機の引き渡しはそのような方法で行われていたのですね。
当時の様子を知る貴重な情報、どうもありがとうございました。
それから「当時の写真を」とのことで、お役に立ちたいのは山々なのですが、
生憎当ブログは弱小でして、しかもこの記事は二年近く前のものです。
写真をお持ちの方がこのコメントを目にする可能性は非常に低いと思います。
既になされているかもしれませんが、それなりの掲示板で呼び掛けをした方が可能性は高いと思います。
また、もしこんなブログで宜しければ、専用の頁を作って呼び掛けさせて頂きますが、如何でしょうか?
by とり (2012-02-24 20:55)
終戦後命令により書籍は私物まで焼却しましたので、記憶を辿るしかありません。滑走路の西側のエプロンに格納庫があり隣接して指揮所がありました。会社の女子事務員が世話をしておられました。私は96陸攻からの転進で、DC3はメイン席が左となりますので操作が初めからの体験で慣れるのに苦労しました。操縦席の高さが7メートルと高いので離陸のさい水平姿勢にしてスピードを上げるのが難しく短い滑走路でもあり苦労したものです。6月には単独で飛べるようになりました。
by 中谷 四郎 (2012-02-25 08:39)
3月9日深夜轟音で外へ出ると低空をB29が次々と現れてサーチライトに浮かび曳光弾が追いかけるもなかなか当たらず、2時間ほど続きました。戦後340機とわかりましたが、物量と戦力の違いを痛感させられました。東京の空は強風にあおられては真っ赤に染まり被害の大きさを知らされました。当時は軍機に触れるので写真は撮ることが制限されておりおそらくは残っていないと存じます。ご配慮感謝します。私は甲飛12期鹿児島8月入隊生で17。18歳を海軍で過ごし1年4月飛行機の操縦を体験しました。飛行は700時間くらいでした。
by 中谷 四郎 (2012-02-25 09:03)
私はゼット機の搭乗体験がありません。我が家では子供孫までが体験済みで情けない次第です。セスナとヘリに短時間乗せてもらいましたが福井の小さな飛行場でも着陸装置が完備されており、前車輪式飛行機操縦の容易さを痛感しました。英語による航空管制がなければ、民間航空機に進んだかもと思っております。当時は英語を学んでも進む勇気がありませんでした。
by 中谷 四郎 (2012-02-25 10:22)
8月21日美幌基地を乙飛出身の搭乗整備員と二人が操縦席に座り飛び立ち、兵員21名を載せて編隊飛行で飛び厚木基地に降りましたが、厚木の反乱に巻き込まれ数日不穏な日を重ねました。解決後また二人に命令があり羽田まで零輸の輸送をしましたが、途中迂回して昭和飛飛行機の低空を飛びバンクして羽田の1200メートル滑走路に降りました。これが゛最後の操縦でした。翌日大阪への便に便乗して小松基地で降してもらい焼野原に変わった郷土福井市の姿に驚かされました。
by 中谷 四郎 (2012-02-25 10:39)
■中谷四郎さん
私など知識としてしか知らない事ばかりですが、戦中戦後史に残る波乱に富む経験を潜り抜けてこられたのですね。すごいことだと思います。
by とり (2012-02-26 08:39)
中谷 四郎さんのように大戦当時を教えていただける方には感謝が絶えないです。
自分は、中学の頃(ずいぶん前になるのかな(^^ゞ)その年代の方に話を伺いに行きましたが、特に南方から帰られた方は話をしたがりませんでした。
「おめおめ生きて帰ったなど、そんな恥を話せるか!」というような感じです。
当時の経験者で現存されてる方も少なくなりました。もっと、このような体験談をお聞きしたいし、後世に伝えねばと思いました。
by 鹿児島のこういち (2012-03-03 09:33)
■鹿児島のこういちさん
>「おめおめ生きて帰ったなど、そんな恥を話せるか!」
重いお言葉ですね。
以前、「戦地から無事帰って来れて良かったですね」と言って大失敗したことがあります。
死生観のあまりのギャップに狼狽し、戦争が1人1人に及ぼす影響の大きさ、長さに考えさせられました。
中谷四郎さんのようなお方は本当に貴重な方だと思います。
鹿児島とも縁のある方ですから鹿児島のこういちさんにとっては特に親近感が沸くのではないでしょうか。
by とり (2012-03-05 06:32)
戦争を語りつごう リンク集を検索されますと、たくさんの戦記を見ることができます。
by 中谷 四郎 (2012-03-08 15:25)
■中谷四郎さん
>戦争を語りつごう リンク集
早速拝見しました。
すごいサイトですね。教えて頂きどうもありがとうございました。
by とり (2012-03-09 06:53)
老人は時間が有り余っていますのでyou tubeをひらいて
B29、B52、D3C、等いろんな飛行機の映像で楽しんで
おります。
by 中谷 四郎 (2012-03-12 13:29)
■中谷四郎さん
ご謙遜されてますが、今はネットでいろいろ見ることができて便利な時代になったと思います。
1つ教えて頂きたいことがあるのですが、「千歳、美幌基地に移り特攻訓練を行った」と以前
コメント頂きましたが、私は千歳と美幌で特攻訓練が行われているのを知りませんでした。
差支えなければこの件を記事に含めさせて頂きたいのですが、いかがでしょうか?
by とり (2012-03-13 06:42)
昭和飛行機に派遣されていた全員が特攻隊に編入されて、外部との文通は禁止外出もできなくなりました。夜間飛行訓練を重ねていましたが、私どもには任務の詳細は知らされていないので、精神的には緊張感はないままで終戦を迎えたのです。最近のブログで判りましたが、作戦としては満月の夜低空飛行でサイパン、硫黄島かに兵士を乗せて強行着陸しB29の破壊を計画していたようです。戦艦大和特攻と変わらない結果になっていたことでしょう。
by 中谷 四郎 (2012-03-13 16:19)
■中谷 四郎さん
>B29の破壊
そんな計画があったのですか!!
貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
千歳と美幌は未完成のものも含めて第一から第三飛行場まであったようですが、
どちらの基地におられたのでしょうか?
by とり (2012-03-14 05:58)
20年7月に松島におりて直ぐに千歳に移動しようやく美幌第2飛行場におりて珍しい8角形の平屋木造兵舎におさまりました。輸送機が主でした。他の飛行場では1式陸攻と銀河がいたようです。夜の事で機数は判明しませんが、記録では残存した零輸は51機だそうです。DC3は姉妹機が世界で13000機が存在したようです。同じ仲間が同数はいたことになり貴重な体験だったとおもっております。
by 中谷 四郎 (2012-03-14 09:34)
昭和18年8月鹿児島予科練昭和19年4月谷田部飛練(赤とんぼ)昭和19年8月豊橋96陸攻昭和20年1月館山96陸攻対潜哨戒昭和20年2月厚木零輸昭和20年3月昭和飛行機派遣隊零輸以上が経歴です。同期生が蒼空のはてにのブログで述べております体験は飛錬までは同じです。昔の軍隊は体罰と虐めが横行若さで耐えられましたが、最大の苦労は焼野原にもどってからの2年間が飢えと貧困のなかで母を養うことでした。年金制度により若い世代に支えられ安泰な日々を送れる今の幸せを感謝しながら喜んでおります。
by 中谷 四郎 (2012-03-14 10:21)
■中谷 四郎さん
たくさんの貴重な情報を教えて頂き感謝致します。
後日記事に反映させていただきます。
本当にありがとうございました。
「安泰な日々を送れる今の幸せ」という言葉が非常に重いです。
震災の影響でオタオタしてしまっておりますが、戦時中を潜り抜けてこられた方は
流石に肝が据わっておられますね。
by とり (2012-03-15 06:53)
地震は昭和19年12月の三河地震を豊橋で体験倒れてしまいました。昭和23年6月の福井地震では仕事を休んだ日で、映画館に入ろうとして入場券を手に中に入りかけて地震が発生外に抛りだされて倒れておりました。少しの違いで下敷きになるところで助かりました。運転自損事故も3回体験しましたが何れも怪我はなく、現在はゴールド免許証で87歳まではのれますので、次の更新が目標です。
by 中谷 四郎 (2012-03-15 09:53)
■中谷 四郎さん
大地震を既に何度も経験してこられたのですね。
次の免許の更新という目標があるのですね。
by とり (2012-03-16 05:58)
美幌基地にかんするブログがあります。次を
開いてください。剣作戦の記述もあります。
昭和20年9月の美幌基地
by 中谷 四郎 (2012-03-16 06:21)
■中谷 四郎さん
記事拝見致しました。
残存数等見ても、通常は特に感じることも少ないのですが、
「美幌第二 零輸3」には特別感慨深いものを覚えました。
ご紹介ありがとうございました。
by とり (2012-03-17 05:55)
私は1歳5ヶ月で父が急死しました。3人の兄も病死で長男、戦死で2人を失い母をのこして志願しました。42歳のとき暴飲から胃の7割と十二指腸を切除しましたが、今日まで生きてきました。戦災で家も焼かれ田舎に疎開していた2年間の暮らしは格差社会そのものでした。学歴もないのによく耐え抜いて生き延びられたとよく過去を振り返っております。
by 中谷 四郎 (2012-03-17 08:49)