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富山(倉垣)飛行場跡地 [├空港]

  2011年10月 訪問 

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富山県‎富山市にあった「富山飛行場」。

倉垣村に建設されたことから「倉垣飛行場」とも呼ばれました。

実は2010年7月にお邪魔したのですが、敷地外からまったく明後日方向を撮ってしまい、再訪したのでした。

周辺には圃場が広がっていて、開拓碑があちこちにあります。

 

D20_0046.jpg

・A地点

 

富山飛行場:map   


      富山県・富山飛行場跡地      

富山飛行場 データ

設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:富山県‎富山市‎布目‎
座 標:N36°44′44″E137°10′57″
滑走路:1,750m×200m?
磁方位:04/22
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿 革
1933年 水田を整地して富山飛行場完成
1934年 富山~東京 定期便就航。その後戦時体制が強まるようになる
1939年 軍事目的のみの利用となる
1945年 終戦
1948年 旧陸軍用地として倉垣開拓農事実行組合に払い下げ
1950年 滑走路跡に和合中学の校舎完成

関連サイト:
国土地理院 1946年当時の写真(USA M203-A-7 48) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)     
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コメント(9)  トラックバック(0) 
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コメント 9

亀兎

婦中町にすんでいる祖父が、あそこには軍の飛行場があったんだと言っていましたが、本当にあったんですね。
by 亀兎 (2012-05-22 00:19) 

とり

■亀兎さん いらっしゃいませ。
地元に伯父様がいらっしゃるのですね。
お邪魔致しましたm(_ _)m
終戦と共に使わなくなってしまった飛行場ですから
非常にマイナーな部類だと思います。
by とり (2012-05-23 18:37) 

ぴよこ

初めまして!夜分に遅くすいません!
おおお!富山飛行場の跡地を計測されたのですか!すごいです!
富山市に在住しています「ぴよこ」と言います。
富山大空襲の時、富山飛行場には木製の疾風が1機あったと聞いております。
 如何せん、8月1日・・・富山では空襲で亡くなった方を偲ぶため、毎年花火を打ち上げております。
 今日は8月1日・・・絶食をして喪に服したいと思います。
乱文失礼でした。
ちなみにとりさんのお名前・・・由来を聞けたらうれしいです!
「ぴよこ」はひよこみたいにうるさいからだそうですww

by ぴよこ (2012-08-01 03:17) 

とり

■ぴよこさん いらっしゃいませ~^^
記事中の地図は、当時の写真、資料を集めて随分時間を掛けて作りました。
多分こんな感じだったと思います。
撮影当日は、撮影できる明るさになるまで現地で待ってから撮りました。
早朝の静かな時間で、犬の散歩、ジョギング等されている方が多く、そんな中で撮らせて頂きました。
相当怪しかったと思います。お邪魔致しましたm(_ _)m

木製の疾風のこと、花火のこと、貴重なお話をありがとうございます。
地元の方にとって今日はとても大切な日なのですね。
オイラもそのことに思いを致しながら今日一日過ごさせていただきます。

ぴよこさんのHNの由来、笑ってしまいました^^
オイラはですね、黄緑の鳥の絵をアイコンに使ってますが、この絵は小学生時代からオイラのシンボルマークなんです。
HNは何も考えていなかったのですが、アイコンにこの絵を使おうと決めたので、
じゃあHNは「とり」でいいや。という、そんな安直な由来です。
by とり (2012-08-01 06:17) 

名越亮三

富山県婦負郡倉垣村布目の旧陸軍飛行場跡地には、昭和26年6月1日(第1回電波の日=電波法施行日)、当時の電波監理委員会直属の富山電波監視局が開局しています。
小生は、当時、開局前の5月に実施された5名の職員採用試験に合格して勤務していました。
この電波監視局は、国際電気通信条約規定の、『電波監視』・『HFBC(短波国際放送)調査』その他『スペクトラム調査』や『違法電波調査』等の業務を全国9か所の監視局と独自短波無線電信回線を介して24時間運用されていました。
特筆すべき事項は、無線方向探知機は、米軍供与(1944年製)の可視式
ゴニオメーター(然も、野戦・可搬移動式かつ強制暖房器付加)システムものでした。受信域は、旧日本軍のものに比べ周波数安定度が抜群に良く、また
米国製超短波受信機も設置されていたものです。
電波の監視指令は、独自暗号化されたモールス通信で約10キロメーター
遠隔の送信所を介して発信し、監視結果1日分は、翌日、09:00から『フヤ2』前置符号を冠して、中央監視局(神奈川県三浦群初声の旧海軍研究所)あてに、釧路監視局=JGS30=を初回に都城監視局=JGO30=しんがりまで報告したものです。
採用された当時は、広大な飛行場占有地は、未耕作のままで、村人は、草競馬を楽しんでいました。
職場の職員構成は、旧逓信官吏練習所(現電気通信大学)出身のエリートを筆頭に、戦時即席開設校の逓信講習所及び旧日本軍の通信兵などでした。
by 名越亮三 (2013-03-04 18:19) 

とり

■名越亮三さん
返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
貴重なお話、どうもありがとうございました。
by とり (2014-02-26 15:48) 

ヒデキ

初めまして、ヒデキと言います。
母の実家は滑走路の北東方向の海岸そばにあったので、小さい頃から富山飛行場関係のエピソードをよく聞きました。しかし、どのような広がりを持っていたかは今回初めて知りました。
また、私が現在住んでいる町内には富山飛行場にいた部隊(新原部隊?)の司令部が置かれた大きな洋館作りの住宅が現役です。この町内は新原部隊の兵舎跡に戦災の被災者や外地からの引き揚げ者が住み始めたのが始まりです。
by ヒデキ (2014-06-26 08:54) 

馬田 鹿之助

はじめまして。

私の家は、まさに旧富山飛行場の敷地内にあります。

幼いころは滑走路跡で野球などをして遊んでました。
今和合グランドとなって、子供たちが野球などをしています。
by 馬田 鹿之助 (2015-02-06 22:38) 

とり

■ヒデキさん
>洋館作りの住宅
非常に貴重なものが残っているのですね。
返事が遅くなってしまい大変申し訳ありません。

■馬田 鹿之助さん
貴重なお話をどうもありがとうございました。
by とり (2015-02-07 06:05) 

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