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上田飛行場跡地 [├空港]

   2010年05月 訪問 

無題2.png
1947年9月当時の写真(USA R213 22)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


長野県上田市 千曲川左岸にあった「上田飛行場」。

2017/4/12追記:防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」から記事追加、修正しました。

上のマップは、上記水路部資料、1947年の航空写真から作図しました。

グレーの長四角は水路部資料「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」で図示されている「飛行場」です。

パープルの敷地は昭和18年4月調の資料なので、拡張した様子が分かります。

パープルの敷地は写真から正確な線が拾えず、かなり大雑把です。

「おおよそこんな感じ」ということで、ご了承くださいませ。

グリーンの小さな長方形は、先頭の航空写真で白く浮き出ている部分で、この南側に格納庫等、分教場諸施設がありました。

青マーカーの位置に碑があり、現在は千曲高校になっているのですが、当時は飛行場中枢区画ということになります。

上記資料にある当飛行場情報を以下引用させて頂きました

面積 北西-南東1,100米 北東-南西400米 総面積30.8萬平方米
地面の状況 平坦にして一面に芝及雑草密生す 堅硬にして排水良好なり・降雨直後と雖も使用し得
目標 上田市、千曲川、上田橋
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(間口25米、奥行25米)1棟 (間口20米、奥行20米)1棟
照明設備 なし
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 あり
修理設備 応急修理可能なり
宿泊設備 兵舎あり、上田市内に旅館20あり
地方風 全年を通じ北西風多し、春季は南東風なり 3,4,9月は一般に風強し
地方特殊の気象 7,8月頃雷雨多し、11月頃早朝濃密なる霧の発生することあり、冬季積雪尠なし
交通関係 上田駅(信越線)東方約3粁、同駅より「バス」の便あり 城下停留所(上田温泉電気線)
南東方約1.5粁
其の他 本場は熊谷陸軍飛行学校分教場なり
(昭和18年4月調)

D20_0055.jpg

千曲高校前(マップの青マーカー)にある記念碑。

上田飛行場跡(全文)
昭和初年繭糸価格の暴落により農村は忽ち未曾有の困窮状態に陥る 昭和五年政府は失業救済農山漁村臨時対策法を成立せしめ失業者の救済と産業振興の為低利資金の融資を謀る 之により上田市は二万八千六百円の融資を受け千曲川の水害による中之条地籍の荒廃地二十余町歩を開墾すること可決し中之条荒蕪地復旧組合を設立 翌六年三月着工 工事の進捗に伴い此の地は耕作に不適当と判断せられた為時勢に即応して飛行場にすべしとの議に決する 同年五月東西四百米南北二百米の地均完了 六月一日朝日新聞社定期航空会社所属 東京新潟間の定期航空便の寄航開始祝賀式挙行 式当日飛来機五機 来賓数百 観衆多数 同年東西に各百米の拡張工事を為し秋完成 上田市は中之条荒蕪地復旧組合より飛行場地域を買収市の所有となる この価格四万四千八百四十四円 同年十月十七日市営飛行場開場式挙行 飛来せる陸軍機民間機計十八機 来賓千数百名観衆は万を以て数え空前の盛況を呈する昭和七年三月離着陸に不安なからしむる為東西五百米南北九十米に約十糎の盛土を施し六七両月に亙り東西両接続地数十米の地均 更に不整形を是正し格納庫車庫事務室等を建設 設備を完成 陸軍省に献納の儀出願 認可を得る昭和八年四月三日献納式挙行 参列者五百余名 陸軍上田飛行場と命名せられる 献納の土地面積四万九十二坪建物数量二百二十九坪井戸一ヶ所時価約七万六千円以後所沢下志津浜松熊谷等の飛行学校飛行聯隊逓信省朝日新聞社その他民間機の利用するところとなり年間の飛来機数二百乃至三百機に達し本州中部航空路の重要飛行場となる 特に山岳地方耐寒飛行演習に於て他に比すべきなしとの評を得る やがて?界の軍事情勢緊迫化するや昭和十二年熊谷陸軍飛行学校上田分教場となり練習部隊が駐屯 飛行場の拡張工事が急速に進められ隣接する農耕地の買収が強制され飛行場の総面積は実に十七万坪に及ぶ 更に九五式練習機が上田上空を訓練飛行し離着陸に支障ありとして鐘紡上田工場の煙突を切り落とす かくして上田分教場は幾多搭乗員を養成 戦況危機に瀕して特攻隊が此の地から飛び立つに至る 昭和二十年八月十三日米軍機来襲 付近住民に犠牲者が出たのは記して銘すべきである 同年八月十五日の敗戦により米軍に接収せられ土地建物は大蔵省の管轄下に入る 昭和二十一年五月上田市は米進駐軍長野軍政部の認可を得 土地建物を借り受け市立高等女学校が移転同二十三年四月市立高等女学校と市立商工学校を合併せしめ土地建物約二万坪の払下げを受け同二十四年四月県立移管 上田千曲高等学校となる 校地以外の土地は逼迫した食糧事情の下一般市民の開墾 上小開拓団の入植問題等一時紛糾したが地元増反による開拓事業として中之条下之条両地域農家に払下げが決し昭和二十四年二月一日十万九千七百六十六坪同二十七年三月一日二万三千百二十五坪の払下げとなる 総価格二十三万二千七百余円 又同二十四年最初の県営住宅平屋木造五棟十戸 同三十六年から三十八年平屋二階四階耐火十九棟百戸が建築され同三十四年から三十六年市営住宅平屋木造耐火五十六棟百十五戸の建設を見る かくして同三十七年一月一日千曲町が中之条から分離独立 その他道路敷一万三千三十坪水路敷四千八十二坪 千曲高校敷地を含め合計十六万八千六百四十六坪の払下げとなる 思うに昭和五年上田市が目した荒廃地開墾の事業は皮肉にも敗戦によって実現したのである しかしその農地も今や大半が宅地と化し昔日の面影を留めず飛行場建設以来幾変遷を経て既に五十五年今此の地に記念碑を建立銘文を撰し長く後世に伝えんとする 題字 成澤昌茂 文並書 細川武敏

この長文、全部読む方はおりますまい。碑文によりますと、 「中之条地区を開墾しよう」 というのが当飛行場建設の発端だったようです。

「開墾」から「飛行場建設」 というのは随分突飛な感じがしたのですが、

他の資料の中で、「上田飛行場は失業対策で建設された」と記されていました。

しかし碑文にもある通り、「開墾」という当初の目的が「市営飛行場」、「陸軍飛行場」を経て

最終的に敗戦によって実現したというのはなんとも皮肉な話です。


       長野県・上田飛行場跡地      

上田飛行場 データ
設置管理者:上田市→旧陸軍
空港種別:市営飛行場→軍用飛行場
所在地:長野県上田市中之条
座 標:N36°24′02″E138°13′38″
面 積:56.2ha(上田分教場当時)
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1930年 上田市、政府の低利融資を活用して「中之条荒蕪地復旧組合」を設立 
1931年 03月 開墾開始するが、耕地に適さないことが判明。飛行場にすることに
      05月 400mx500mの地ならし完了
      06月 東京新潟間の定期航空便の寄航開始祝賀式挙行
      秋 東西各100mの拡張を行う(400mx500m→500mx600m?)
      「中之条荒蕪地復旧組合」から飛行場を買収し、上田市所有となる
      10月 市営飛行場開場式
1932年 3,6,7月 整地、施設整備を行う
1933年 04月 陸軍に献納式。「陸軍上田飛行場」となる。13.3ha。
1937年 「熊谷陸軍飛行学校上田分教場」となる。急速に拡張し、56.2haに
1944年 特攻隊の訓練が行われるようになる
1945年 08月 終戦2日前に米軍機来襲、近隣住民に犠牲者
      敗戦により接収され、土地建物は大蔵省管轄に
1946年 05月以降、飛行場跡地を学校、耕地、県営住宅等に活用

関連サイト:
東信ジャーナル/記念碑と案内板移設    
水路部資料「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」(アジ歴)  

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」


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コメント 3

sak

いろんな歴史があって
そんな中でも終戦近くなると
いろんな飛行場で特攻隊の訓練って出てきますね
飛行機や飛行場...
やっぱり戦争の歴史とは切り離せないんだなって
by sak (2011-03-11 11:33) 

an-kazu

とりさんが見て回ってこられた、直前まで運営されていた飛行場が、
今回の大地震復興に活用されるといいなと思います。
by an-kazu (2011-03-13 09:00) 

とり

■an-kazuさん
陸路はズタズタですからね。
たとえ一時的でも、せめて臨時ヘリポートとしてでも活用できる場所があるといいのですが。
by とり (2011-03-13 18:05) 

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