三小牛離着陸場 [├空港]
2011年10月 訪問
石川県金沢市にある「陸上自衛隊 三小牛演習場」。
施設内に「三小牛離着陸場」があります。
滑走路は見えないものかと外周を回ったのですが発見できず。
オイラは入口から撮るのが精一杯でした。
聖護院草庵主人さんから頂きました。三小牛離着陸場のお写真。 聖護院草庵主人さんどうもありがとうございましたm(_ _)m
三小牛離着陸場:map■
石川県・三小牛離着陸場
三小牛離着陸場 データ設置管理者:防衛省
所在地:石川県金沢市大桑町鐘搗山
座 標:N36°31′22″E136°40′19″
滑走路:260m×30m?
磁方位:09/27
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出
関連サイト:
国土地理院 1965年2月当時の写真(MCB625 C11B 6)■ (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)
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般若(柳瀬)飛行場跡地 [├空港]
2011年10月 訪問
富山県砺波市にあった「般若(柳瀬)飛行場」。
現地を訪れるまでこの飛行場については「砺波市柳瀬 庄川河川敷にあった」という以外分からず、
地元図書館の町史、村史にも飛行場についての記述は見当たらなかったのですが、
「司令部偵察機と富山」という本があり、ここに飛行場についての記述がありました。
上図は本の中にあった米軍作成図から作りました。
川の形も変わっていて、簡略化した図のため、滑走路の場所はおおよそですのでご了承くださいませ。
本当はもう少し東側だったかも。
ここに飛行場を建設するに至った経緯について、 「司令部偵察機と富山」の中で次のように説明されていました。
三菱航空機名古屋工場が壊滅し、百式司令部偵察機を製造するため、
1945年1月1日 三菱は富山県射水郡(当時)大門町にある呉羽紡績庄川工場を2年間借用。
百式司令部偵察機の生産部門を当地に移動しました。
近在の福野、井波の各紡績工場と金沢の大和航空機工場、大建産業等を併合して
「北陸ブロック」を形成、これを「第十一製作所」と称しました(大門町の呉羽紡績工場が本社)。
2月11日 百式試運転。数日後各務原飛行場から試験飛行。
その後富山空港で組み立てと試験飛行を行うようになり、
各務原へ貨物輸送するために解体、梱包する手間がなくなったのだそうです。
その後、最終組み立て工場近くに滑走路を建設することになり、
庄川沿いの北般若村で29町歩、柳瀬村で16町歩の良田を潰しました。
こうして上図「般若(柳瀬)飛行場」が造られることになったのですが、建設途中で終戦を迎えました。
・A地点
般若(柳瀬)飛行場:map■
富山県・般若(柳瀬)飛行場跡地
建設途中で放棄された滑走路は戦後しばらく残っていたのだそうです。また建設跡が残っている地下工場「雄神地下工場」はこの滑走路の南、太田橋を挟んで対岸にあります
般若(柳瀬)飛行場 データ
空港種別:陸上飛行場
所在地:富山県砺波市下中条
座 標:N36°39′30″E137°00′00″
滑走路:1,830m×30m
磁方位:18/36
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出
沿革
1945年01月01日 三菱、疎開工場「第十一製作所」立ち上げ
02月11日 百式試運転。数日後各務原飛行場から試験飛行
03月 柳瀬北般若に整備と滑走路を起工することを決定
05月01日 富山空港で最初の百式の組み立てと試験飛行
08月15日 飛行場建設途中で終戦。
関連サイト:
国土地理院 1947年11月当時の写真(USA 644-1 108)■ (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)
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この記事の資料:司令部偵察機と富山
立野ヶ原不時着場跡地 [├空港]
2011年10月、2018年5月訪問 2018/5/19更新
撮影年月日1947/11/06(USA M632No2 257)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
富山県富山県南砺市にあった「立野ヶ原演習場」。
この演習場内に不時着陸場が設定されていました。
第1地区から第3地区まで3つあり、先頭のグーグルマップの通りで非常に変わった形をしています。
防衛研究所収蔵「水路部 航空路資料第4 昭和19年6月刊行 中部地方飛行場及不時着陸場」の中で、
当不時着陸場についての非常に詳細な記述がありましたので、一部引用させて頂きます。
第10 立野原陸軍演習場(昭和17年11月調)
管理者 立野原陸軍演習場主管。
位置 富山県西蠣波郡東太美村字上野
(城端町の西方約4粁、36°31′0N,136°52′0E)。
種別 不時着陸場。
本演習場は富山平野の南部に突出せる丘陵上の自然の原野にして金沢師団管下砲兵の実弾射撃場なり。従来不時着陸場として使用せられつつある地区又は適当と認めらるる地域は演習場の略北西部にして俗稱宮野原、有田原及南部市野沢と称する3地区なり即ち第1及第2地区は道路を隔てて南、北に隣接し、第3地区は之より北方約1粁に在り前2者に比し其の面積狭小なるも着陸場として極めて好適なるを以て民間機屢飛来すと言う。
着陸場の状況
高さ
平均水面上185米(第1地区)、160米(第2地区)、125米(第3地区)。
広さ及形状
第1地区は長さ北北東-南南西700米、幅300米の略長方形、第2地区は長さ北東-南西650米、幅最大350米の略凸字形、第3地区は長さ東西350米、幅南北200米の短形地域なり(付図参照)。
地表の土質
3地区とも地下30糎迄は黒土、以下は赤色粘土なり。
地面の状況
第1地区 着陸地域内は一般に起伏多く且北方に向け1/40の下り傾斜を成す。地盤は概して堅硬なり。西側寄りの南北に通ずる道路は地肌を露出し降雨続きの際は泥濘となる。一面に山芝密生し諸處に丈低き萩及萱類発生す。一帯に傾斜地なるを以て排水良好なり。着陸地域の略中央部に高さ約10米の独立樹2本及高さ2.7米の演習用「トーチカ」等の障碍物あり。冬季(12月-翌年2月間)は積雪50糎に達す。
第2地区 地表は一般に緩やかなる起伏あるを以て着陸の際は充分なる注意を要す。南西-北東に向け1/30の下り傾斜を成す。一面に山芝密生し夏季は伸長1.5米に及ぶ萱及雑草の草株諸所に点在す。排水概ね良好なるも南西側の道路は降雨の際軟化す。
第3地区 3地区中最も好適地にして民間機屡着陸すと言う。着陸地域内の中央北は凸凹起伏なく概ね平坦なるも南側は東西方向に長き窪地あり、又東方に向け極めて緩除なる下り傾斜を成す。地盤は堅硬にして一面に良好なる山芝密生し地表極めて平滑なり。降雨後の排水概ね良好なるも場内を通ずる各道路は軟弱となる。
場内の障碍物
第1地区の略中央部に高さ約10米の独立樹2本及高さ2.7米の演習用「トーチカ」あり。第2地区の南端付近に高さ5-10米内外の針葉樹点在す。第3地区の南側に東西に長き窪地あり。
適当なる離着陸方向
第1地区は北北東又は南南西。第2及第3地区は東又は西を可とす。
離着陸上注意すべき点
第1及び第2地区は場内に障害物存在し且周囲に高樹木あるを以て可及的第3地区を使用するを可と認む。
其の他
第1及第2地区は地表起伏に富み且周囲に障害物多く過去に於て飛行機の離着陸せしことなきも極力障害物に注意せば低速度航空機の不時着陸場として使用し得べし。
第3地区は着陸地域極めて狭隘なるも最近民間機飛来せる際何等の故障なく離着陸せりと言う。

第2地区
第3地区
おまけ。
演習場に「監的壕」が2つ残っています。
まずはその1つ、「丸山監的壕」。
南砺市桜ヶ池スケートパークからぐねぐねの山道を登る途中にあります。
監的壕とは、大砲の着弾効果を見るためのものです。
「なんで覗き窓をこんなに小さくするんだろう??」
というのが第一印象だったのですが、隣の説明版を読んで合点がいきました。
監的壕(全文) 眼下の桜ヶ池から北へ約3キロメートル、東西約2キロメートルに亘って広がる丘陵が立野ヶ原で、先土器時代から縄文時代を中心とする遺跡が点在する県下有数の埋蔵文化財包蔵地帯である。日清戦争が終わり、翌年の一八九六(明治二九)年に砲兵装備を有する金沢第九師団が設置され、陸軍省はその射撃演習場としてこの立野ヶ原に着目した。同年五月から四回に亘り一四七万坪、当時の南山田・太美山・東太美各村にまたがる一帯を買収して「立野ヶ原陸軍演習場」が設置され、砲兵のみならず諸兵科の演習地とした。特に砲兵の実弾射撃は、飛野(現在の自動車学校のあたり)を拠点として実施され、この地丸山周辺を被弾地としていたので着弾効果を観測するための「監的壕」がいくか建造された。この監的壕はその最後の構造物で、昭和一〇年代の遺構であり、現在演習場としての当時を偲ぶ唯一の遺産である。 平成十一年三月 城端町教育委員会
オイラの弟は元陸自隊員でして、一時測量班にいたのですが、まさにこの砲関係の測量でした。
測量班は風向、風速等諸々のデータを大砲側に送るのだそうです。
そして大砲、標的、測量班の三つは必ず三角形の形に配置して安全を確保するのだそうです。
そりゃそうだ。と思っていたのですが、案内板によるとこの監的壕って、こっちに向かって撃ってくるんですね(恐)
そういう発想がなかったオイラは説明を見てからは、逆にこんなにたくさん窓つけて大丈夫なのかと心配になりました。
まあわざわざ監的壕を標的に撃ったりはしないんでしょうけども。
日本軍最強伝説(汗)
木が邪魔でアレですけど監的壕からの風景。
2つ目。
立野原監的壕。
こちらは水田の一角にあります。
こちらも説明版がありました。
(全文)南砺市指定 史跡 立野原監的壕(目玉監的壕・めだまかんてっこう) 平成二十六年四月九日指定
日清戦争後の明治31年(一八九八)、金沢市に砲兵装備を有する陸軍省第九師団が設置され、その演習場として立野原一帯
が買収され、450ヘクタールを越える大型演習場となりました。砲兵の実弾射撃は飛野(現 南砺自動車学校付近)を拠点
として実施され、約4キロメートル先の立野原周辺を着弾地としており、砲弾の命中率・性能効果を観察するために監的壕がいくつか設けられました。当初は土坑であったものが昭和3年頃に近代的で強固なコンクリート製に改修されました。構造は半地下式、監的室は円形型、ドーム屋根で導入路がついています。この監的壕は、その形状から地元では「目玉監的壕」と呼ばれ、保護されてきました。かつて立野原が軍事演習場として利用された歴史を今に物語る貴重な存在です。
平成二十七年十月 南砺市教育委員会
立野原一帯のあちこちに碑文がありました。
軍命で立ち退きを余儀なくされたこと、戦後開拓をしたこと等、当時の苦労が偲ばれます。
富山県・立野ヶ原不時着場跡地
立野ヶ原不時着場 データ管理者:立野原陸軍演習場主管
空港種別:不時着場
所在地:富山県南砺市立野原東、立野原西
不時着陸場:
第1地区
座 標:N36°30′45″E136°51′32″
標 高:183m
第2地区
座 標:N36°30′59″E136°51′58″
標 高:167m
第3地区
座 標:N36°31′43″E136°52′23″
標 高:123m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1987年 立野ヶ原演習場設置
関連サイト:
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この記事の資料:
現地の説明版
防衛研究所収蔵「水路部 航空路資料第4 昭和19年6月刊行 中部地方飛行場及不時着陸場」
富山陸軍(倉垣)飛行場跡地 [├空港]
2010年7月、2011年10月訪問 2019/2/9更新

撮影年月日1946/07/22(USA M203-A-7 49)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
富山県富山市にあった「富山陸軍飛行場」。
後述しますが、アジ歴の資料によりますと当飛行場は、
「八十万県民の醵出貮拾餘萬円」により公共用の「富山飛行場」として発足し、
倉垣村に建設されたことから「倉垣飛行場」とも呼ばれました。
昭和9年度から日本航空輸送により東京への定期便があり、また陸軍各連隊の訓練飛行にも使用されました。
当飛行場の南約11kmに現在の「富山きときと空港」があり、毎日東京行きが4便運航しています(2019年現在)。
富山-東京間の航空路線は非常に長い歴史があるんですね。
当飛行場については、確認可能な地図が以下の3資料にあります。
・航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場(下記リンク参照)
・防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.1 水路部
・日本海軍航空基地要覧(陸軍航空基地含む)(下記リンク参照)
以上3資料に添付の地図で、測量年は不明なのですが、上から順に、
昭和9年5月資料の地図
昭和18年4月資料の地図
昭和20年5月資料の地図
です。
先頭のグーグルマップは、この3つの地図から作図しました。
地図に引かれた飛行場敷地境界線を1946年の航空写真で探していったのですが、
なかなか線が拾えず大雑把な部分がかなりあります。
ご了承くださいませ。
前述の「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.1 水路部」の中で、
当飛行場の詳しい地図がありました。
図の中では、飛行場敷地は全周に渡り「溝」で囲まれています。
この地図には、日本海沿いに越中鉄道(後の富山地方鉄道射水線。1980年廃線)が描かれていて、
飛行場の丁度北側に「とやまひこうじやうまへ」駅があります。
で、この駅からの一本道が飛行場敷地に伸びています。
また、現在の「倉垣地区センター」、「和合運動広場」前の道路は、
昭和9年、18年資料の地図にある飛行場敷地の東側境界線を成しているんですが、
丁度この二つの施設の前辺りだけは、飛行場をグルリと取り囲む溝が暗渠化されており、
境界線の東側(敷地外側)に格納庫が描かれています。
「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.1 水路部」の中に、
「富山陸軍飛行場 富山県婦負郡倉垣村大字布目打出」として、情報がありました。
以下引用させて頂きます。
面積 南北800米 東西700米 北東-南西800米 総面積36.8萬平方米
地面の状況 芝敷滑走路(南北800米、幅150米)1條あり 平坦且堅硬なるも降雨後は軟化す 夏季は雑草繁茂し、冬季は積雪大なり
目標 富山市、神通川、東岩瀬港突堤
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(間口26米、奥行17米)1棟
照明設備 なし
通信設備 元航空局支所内に電話(四方103番)あり
観測設備 富山測候所に連絡す
給油設備 なし
修理設備 なし
宿泊設備 兵舎2棟あり
地方風 流行風は南又は北風多し
地方特殊の気象 降雪は12月-翌年4月間にして雪積平均70糎に達す
交通関係 打出駅(越中鉄道)北方600米 本場より富山市及四方町に至る良好なる道路あり
其の他 本場は元公共用飛行場なりしも昭和18年4月陸軍飛行場と為る
(昭和18年4月調)
地面の状況の項目で、「芝敷滑走路(南北800米、幅150米)1條あり」とあります。
航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場(下記リンク参照)の中では、
滑走路は700mx120mとありますので、少し拡張したんですね。
某サイトでは、
「(ある本の中では)第三次拡張で滑走路が500m延伸して1300mとしているが、本来の滑走路長が700mであったことを全く理解していない」
とあり、700m滑走路に500m延伸して1,200mとする自論が続くんですが、
昭和18年4月時点で800mであったことをきちんと理解していれば、
「500m延伸して1300m」(800+500=1,300)でちゃんと辻褄合っている事が分かります。
格納設備の項目で、「格納庫(間口26米、奥行17米)1棟」とあります。
これが件の飛行場敷地すぐ向い側に描かれている格納庫と思います。
また、交通関係の項目には、「打出駅(越中鉄道)北方600米」とあるのですが、
Wikiによりますと、 この打出駅は、昭和7-9年頃に「富山飛行場前駅」に改称したとあります。
アジ歴に「富山飛行場整備に関する件」という資料があります。
それによりますと、昭和十一年三月二十三日に富山県知事土岐銀次郎氏が陸軍大臣に対し、
「飛行場整備に関し具申」として、「日本海方面に於ける唯一の既設飛行場たる富山飛行場の拡張並整備」
を申し出ています。
これに対し、同年四月十日に、「拡張施設を為すことは実現困難」という返答がありました。
県知事の具申書では、
「富山飛行場は非常に重要な飛行場であるにもかかわらず、飛行場はたったの700mx120mしかない」
とあります。
この飛行場のサイズは、 昭和9年5月資料に出てくるのと同一の数字なので、
昭和11年3月当時までは、先頭のグーグルマップのグレーの敷地のままであった可能性が高いと思います。
当時のL字型の飛行場の広さは、 航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場(下記リンク参照)の中で、
265,000sqm(≒26.5ha)と出てきます。
昭和20年5月資料の地図に描かれている飛行場は、面積を記した資料が見当たらないんですが、
オイラの作図が正しければ、167haです。
県知事の要望は却下されてしまい、すぐには叶いませんでしたが、
その後10年を経ずして6.3倍まで拡張したことになります。
昭和18年4月に陸軍飛行場化したのが大きかったんでしょうね~。
赤マーカー地点。
少なくとも昭和18年4月までは、道路に沿って画面左側が飛行場敷地でした。
現在周辺には圃場が広がっていて、開拓碑があちこちにあります。
富山県・富山飛行場跡地
富山陸軍飛行場 データ設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:富山県富山市布目
座 標:N36°44′44″E137°10′57″
滑走路:700mx120m→800mx150m→1,300m
方 位:04/22
面 積:26.5ha→36.8ha→167ha?
(座標、方位はグーグルアースから)
沿
革
1933年 水田を整地して富山飛行場完成
1934年 富山~東京 定期便就航。その後戦時体制が強まるようになる
1939年 軍事目的のみの利用となる
1943年 04月 陸軍飛行場となる
1945年 終戦
1948年 旧陸軍用地として倉垣開拓農事実行組合に払い下げ
1950年 滑走路跡に和合中学の校舎完成
関連サイト:
航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場■
日本海軍航空基地要覧(陸軍航空基地含む)■
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.1 水路部
中部・近畿旅行・2 [■旅行記]
2日目
5:00 起床。
道の駅「ウェーブパークなめりかわ」で車中泊したわけですが、
国道から外れたとても静かな施設で、波の音を聞きながら寝ることが出来ました。
大型車のスペースとも分離されており最高です。
本当はここよりも次の見学地に少しだけ近い国道8号沿いの道の駅もあったのですが、ここを選んで正解でした。
5:30 出発。
まずは旧陸軍の「富山飛行場」見学。
6時過ぎに到着したのですが、既に犬の散歩の方などおられました。
現地は学校、畑や民家がある普通の生活道路。
なんてことない場所で他府県ナンバーの車を停め、早朝に道路をカシャカシャやるのですから非常に怪しいです。
人目を避けるようにしてそそくさと撮影。
上の図を見て頂きますと、スタート地点からゴールまでの間に見学地点の赤丸がほぼ直線になっております。
順番に進めれば良かったのですが、次の場所は地元図書館で調べないと場所が分からないナゾの飛行場でした。
今から真っ直ぐ向かうと、8時前には図書館に着いてしまいます。
それで1つ先の見学地に向かうことにしました。
途中ジョイフルで朝食。
「立野原不時着場」見学後、「柳瀬飛行場」の場所を調べるために地元図書館へ。
図書館には9:30に着いたのですが、ちょうど開館したところでした。
調べものに1時間半かかってしまいましたが、無事場所情報を入手。現地に行って撮影するともうお昼。
次の場所に向かいつつドライブスルーでマック。
石川県に入り、「三子牛山飛行場」、そして福井県の「三国山飛行場」見学。
かなり陽が傾いてきました。
無理すれば最期にもう1つ先の飛行場まで行けるかも。というタイミングだったのですが、
どうせ無理をしても、地元図書館で調べないといけない飛行場が控えているので、本日はここまでにしました。
ちょうど夕日がいい感じになってきました。
というか、こんな見事な夕焼けの撮影に恵まれたのは数年ぶりです。
うまい具合に広々とした場所があったので、撮影開始。
どれか1枚に絞れなかったので、「経過写真」ということでズラズラと載せておきます。
(トワイライト・ブルーというフィルターかまして撮ってます)
後ろを振り返るとこんな感じ。こんな雲もいいな~。
時折自転車の学生が通り過ぎて行きました。こっち見なくていいから。あっち見た方がいいよ~。
おわり~。
この周辺は有名な温泉地のようで、大きなホテルの風呂に入りました。
600円で大きな露天風呂がほとんど貸し切りでした。
露天風呂には数人用の小さな丸い風呂もあり、入っていたらスタッフのおばさんが
「湯加減はどうですか~」と言いながら温度計で計り始めました。
結構温度の変動があるので、1日に何度も計っているのだそうです。
オイラが入っていた時は41℃で適温でした。
その後最寄りの「道の駅・さかい」に移動。
21:00 寝た。
・・・まではよかったのですが、零時を過ぎた頃、大笑いの声に目が覚めてしまいました。(;´Д⊂)
元々車中泊の時は夜中に何度も目が覚めてしまうのですが、発声練習でもやってるんかという位、ものすげーウルサイです。
うるさい車が入って来て安眠妨害されるのが嫌で、極力奥の空いているスペースに駐車するのですが、
なぜかわざわざ目隠ししているオイラの車の隣に何台も車を持ってきてバカ騒ぎしてます。
しかもエンジンかけっぱで、なぜかコンプレッサーが断続的に作動してます。
このコンプレッサーの断続的な作動音て、車中泊中にやられると、非常に癇に障るのです。
待てど暮らせど一向に深夜パーティーは終わりそうにありません。
…だんだんムカついてきた。
(ワ●パーを●ん●げてやろうか。とか、●字●ン●持ってきてるから、●イ●のボ●トを全部●して、
思いっきりどっかに投げ捨ててやろうか。とか、いや、いっそ●ル●を全部ね●切●て、山を●レ●にな●てやろうか)
とか、ここではマトモに書けない程非常に不穏当な事ばかり考えてしまうオイラ。
ますます大盛り上がりなので、駐車場所を移動することに。こんなこと初めてです。
寝袋から抜け出して、運転席の荷物を移動して、窓の目隠しを外して…。
非っっっっ常に面倒臭いのですが、明日以降の行程に差し障りますから致し方ありません。
騒いでいたのは5~6人位のお兄さんたちでした。
もうホント、目隠ししてる車の隣りで深夜のバカ騒ぎは勘弁してくださいよm(_ _)m
ということで、車の少ない場所に移動。やれやれです。
…と思ったらここにもその後コンプレッサーかけっぱの車が。。。(XДX)
もうしょうがないや。(〃´o`)=3
道の駅で「隣家の迷惑になりますから深夜の騒音ご注意ください」的な貼り紙を見かけることがあります。
深夜パーティーで散々騒いだ後、飲み食いしたものをそのまんまにして立ち去るグループ、
中には駐車スペースでBBQをやって汚してしまうこともあるのだとか。
今は道の駅で制限なく車中泊できていますが、こういう問題が増えると、今後制限ができてしまうのが心配です。
おやすめない。
本日の走行距離:273km
(続きます)
長野県・飯沼飛行士記念館 [├場所]
2011年10月 訪問
長野県安曇野市にある「飯沼飛行士記念館」。
東京~ロンドン間 世界記録を達成した飯沼飛行士の生家にあります。
国道147号線沿いにあって分かりやすいです。
国道沿いと奥に駐車場あり。
2014/2/26追記:後日開館時に再訪問しました(下記リンク参照)。
銘板がはめ込まれてます。
栄光の「神風」号(全文) 昭和12年(1937年)4月6日、午前2時12分4秒、飯沼正明操縦士(当時26歳)、塚越賢爾機関士(群馬県・倉渕村出身、当時38歳)搭乗の純国産機「神風」号は、東京郊外・立川飛行場を出発、4月9日午後3時30分(英国時間)歓声の渦巻くロンドン・クロイドン飛行場に着陸、15,357キロを、94時間17分56秒で飛行し、東京-ロンドン間を100時間を切るという当時の世界記録を樹立、それも日本人が純国産機で成功したことは 世界の航空史の流れの中に不滅の光を放っている。この飛行は5月12日、ロンドンにおける英国皇帝戴冠式のお祝いとブリュッセル、ベルリン、パリ、ローマの各国首都親善訪問を目的に企画された。「神風」号は、三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所の河野文彦氏設計による三菱式雁型複座高速通信機で全金属低翼単葉、翼幅12メートル、機長8.21メートル、最高時速500キロ、航続距離2,500キロ、発動機は中島飛行機株式会社(現・富士重工業)、中島式空冷550馬力で全備重量2,300キログラムの優秀機である。
経歴 飯沼正明 大正元年(1912年)8月2日生まれ、南安曇郡南穂高村(現・豊科町)細萱出身、旧制松本中学校卒業、逓信省委託操縦生として埼玉県所沢陸軍飛行学校を卒業、昭和7年朝日新聞社航空部入社。昭和9年日中処女航空路を開拓するなど、数々の業績をあげ、太平洋戦争に徴用、昭和16年12月11日仏印のプノンペンに散華した。享年29歳、一等飛行機操縦士、二等航空士。 平成元年4月29日 飯沼正明飛行士を讃える会 朝日新聞社
飯沼飛行士記念館:map■
長野県・飯沼飛行士記念館
飯沼飛行士記念館 データ運用期間:12月28日~1月4日、月曜日、および祝日の翌日以外
運用時間:午前9時~午後5時
所在地:長野県安曇野市豊科南穂高3888
座 標:N36°18′59″E137°53′46″
入館料:大人400円
*座標はグーグルアースにて算出
沿革
1989年04月 記念館開館
関連サイト:
飯沼飛行士記念館■
ブログ内関連記事■■(再訪問記事)
航空資料館 [├場所]
2011年10月 訪問
長野県の姥捨(うばすて)駅、姥捨SAの南西にある「航空資料館」。
展示物がいろいろとスゴイというので楽しみにしていたのですが、工事中で休館だったので外から撮ってみました。
資料館前に案内板がありました。
航空資料館案内(全文)
一、目的 時代の激しい進歩の度合を代表する最たるものは航空機の進歩とその技術である。特に高度の調和を絶対に必要とし調和なくしては成立しない特徴がある。一方激動下の社会情勢の推移を直視するとき調和を尊重せずしては成立しない時代であること
を痛感する。このときに当り調和の権化である航空機を通じ時代認識を深めると共に広く航空知識の高揚に寄与すべく航空資料館を建設した
二、建物 明治十年以来麻績小学校々舎として存在した建物をここに縮小して復元した
三、内容 F104J戦斗機・F86D・F86F戦斗機 ジェットエンジン・プロペラ付エンジン エレクトリカルシステム フライトコントロールシステム リンクトレーナー 救命具・落下傘 零戦航法計 航空機に関する資料部品数百点
四、その他(館庭展示品) 軍艦陸奥の主砲 同砲弾 同軍艦旗(館内) D51蒸気機関車 腕木信号機 (聖博物館の各種資料)
航空資料館:map■
長野県・航空資料館
航空資料館 データ運用期間:冬期間閉鎖
運用時間:午前9時~午後5時 休館日:毎週火曜日
所在地:長野県東筑摩郡麻績村麻聖5889-1
座 標:N36°29′16″E138°04′12″
*座標はグーグルアースにて算出
大人 310円
相馬原飛行場 [├空港]
2011年10月 訪問
関越道駒寄PA西にある相馬原駐屯地。その施設内に「相馬原飛行場」があります。
4レターコードのある飛行場です。
1941年からある旧陸軍の施設なのですが、当時の写真を見ても滑走路は影も形もありません。
2000年の写真から滑走路の形が見えるようになります(下記リンク参照)。
相馬原飛行場:map■
群馬県・相馬原飛行場
相馬原飛行場 データ設置管理者:防衛省
4レター:RJTS
所在地:群馬県北群馬郡榛東村広馬場
標 点:N36°26′05″E138°57′11″
標 高:398m
運用時間:8:00-17:00
滑走路:500m×30m
磁方位:06/24
沿革
2001年03月 駐屯地内に相馬原飛行場設置
関連サイト:
Wiki/相馬原駐屯地■
国土地理院 2000年11月当時の写真(KT20007Y C4 23)■ (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)
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中部・近畿旅行・1 [├空港]
(2011年10月に行った話です)
10:06 自宅出発。
1件仕事を済ませ、自宅に戻ってからの出発となりました。
途中、藤岡のおおぎやラーメンで昼食を済ませ、まずは群馬県の相馬原飛行場へ。
その後、長野県の航空資料館に向かったのですが、
180kmも距離があって、今日中にどうしても富山県に入りたかったので高速を使うことに。
平日の昼間に高速使うなんて、なんてブルジョワなオイラ。。。
ということで無事長野県の航空資料館到着したのですが、なんと「工事のため23年度休館」でした。ガーン!!
事前に県の公式サイト、村のサイトで調べておいたのですが、休館のことは書かれてませんでした。
書いといてよ~。 (;´Д⊂)
まあ仕方ない。こんなこともあろうかと、近くにもう一カ所行く所があるのだ。
近くの池で紅葉写真など撮って後、同じ長野県の「飯沼飛行士記念館」へ。
ここは17時までなのですが、無事16時ちょい過ぎに到着。
さあ館内へ。と思ったら。。。
どいひ~。 (;´Д⊂)
けっこうフリーダムな運営なんですね…。
ということで二連続で空振りのまま富山県へ。
富山市にある「旧陸軍富山飛行場」は、実は以前行ったのですが、明後日の写真を撮っていたのでやり直しなのです。
その手前の道の駅を目指して移動開始。
道の駅まで約150kmをひたすら下道を走ったのですが、
夕食の時間に完全に山岳道路になってしまいました。
(お腹空いた。。。)今回は食べ物を一切持ってきてないんだよな~。
大型トラックの車列に挟まれ、アップダウン、急カーブのある山道を延々走ります。
近くの町に出るまであと1時間はかかりそう。
…良く考えたら、貰い物のウイダーinゼリーがあったのを思い出した。
運転しながらちゅうちゅう。これでなんとかしのげるぜ。
その後、やっと一軒だけ開いていたコンビニでパスタとサンドイッチの夕食。
21:00 道の駅「ウェーブパークなめりかわ」到着。
21:10 寝る。
おやすみなさい。
本日の走行距離:463km
(続きます)
スカイフィールドわたらせ離着陸場(藤岡、AMC場外離着陸場) [├空港]
2011年10月 訪問
栃木県栃木市藤岡町にある渡良瀬遊水地。
その一角に「スカイフィールドわたらせ離着陸場(藤岡場外離着陸場)」があります。
残念ながら中に入ることはできませんでした。
占有者の中に「日本気球連盟」、「スカイダイブ藤岡」と共に
「足利マイクロフライトクラブ」があり、「AMC場外離着陸場」とも呼ばれているらしいです。
入念な立ち入り禁止
スカイフィールドわたらせ離着陸場:map■
栃木県・スカイフィールドわたらせ離着陸場(藤岡場外離着陸場)
スカイフィールドわたらせ離着陸場(藤岡場外離着陸場) データ占有者:日本気球連盟 渡良瀬連絡会、足利マイクロフライトクラブ、特定非営利活動法人 スカイダイブ藤岡
空港種別:場外離着陸場
所在地:栃木県栃木市藤岡町赤麻
標 点:N36°15′01″E139°40′06″
面 積:0.00993ha
滑走路:800m×65m?
磁方位:11/29
関連サイト:
足利マイクロフライトクラブ■
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