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水戸南(吉田)飛行場跡地 [├空港]

  2011年12月 訪問 


無題1.png
【全体図】
撮影年月日1947/12/12(USA R636 122) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・記事中全5枚とも) 

無題2.png
【北東の角】
撮影年月日1947/12/12(USA R636 122) 

前記事の「水戸東飛行場」の西南西約12kmにあった「水戸南飛行場」。

当時吉田村にあったため、「吉田飛行場」、「吉田の飛行場」とも呼ばれていたようです。

茨城県‎水戸市‎酒門町にあり、上図の通りで水戸南IC降りてすぐの所にあります。

コメント欄にて、アクツさんから「畑の中に掩体壕が残っていた」と情報を頂いたので改めて航空写真を見てみました。

正方形の飛行場地区の西側は諸施設の並ぶエリアになっており、

それ以外の三辺は飛行場地区を取り囲むかのようにたくさんの構造物があります。

二番目の航空写真は飛行場地区北東の角地のアップなんですが、

ご覧の通りで飛行場地区外周に沿って方形の構造物が並び、

飛行場地区から少し離れた場所には誘導路と結ばれた、スペードマークのような形の構造物があります。

確証はないんですが、どちらも航空機が入りそうな大きさに見えるので、 航空機用の無蓋掩体壕ではないかと。

ざっと探してみた範囲の数字なんですが、

スペードマーク型の無蓋掩体壕と思われるもの(先頭のグーグルマップの赤マーカー)29、

方形の無蓋掩体壕と思われるもの(同青マーカー)28、合計57もありました(@Д@) 

飛行場地区と掩体壕が誘導路で結ばれている様子が航空写真でも見てとれますが、

その誘導路がそのまま道路として今日まで残っていると思しきものが3カ所あり、紫のラインを引いてあります。

地元の方からは「当たり前だろ!」と怒られそうですが、国道6号って、この当時から変わらぬ位置にあったんですね。

 

ということで、終戦から二年後の1947年の当飛行場の航空写真には掩体壕がたくさん映っております。

その後、年代を追って閲覧してみたんですが、1961年位までは掩体壕がまだまだ確認可能な写真が多いです。

ところが1969年になると、掩体壕はもうほぼ確認できなくなっており、

ほとんど痕跡としか言えないようなものが数か所残るのみです。

無蓋ですからね~。

1969年までに掩体壕が"絶滅"してしまった理由としまして、 オイラの見た感じでは、

①宅地化 ②潰して畑になった ③植生が濃くなった が挙げられます。

アクツさんから頂いたコメントでは、1980年代後半まで掩体壕が残っていたとのことですので、

③の掩体壕が木々に隠れて残っていた。ということなのかもしれません。

この記事の先頭から2番目の【北東の角】の航空写真についてですが、当飛行場に数ある中でも、

特にこの部分の掩体壕がギッシリ、ハッキリ映っているので選んでみました。

で、特にこの箇所について以下1961年、1969年の航空写真を貼ってみます。

無題2.png
撮影年月日1947/12/12(USA R636 122) 

無題b.png
撮影年月日1961/06/11(MKT611 C20 13) 

無題c.png
撮影年月日1969/05/20(MKT692X C7 14)  

D20_0035.jpg

・撮影地点。

畑に民家が点在している飛行場跡地


      茨城県・水戸南飛行場      

水戸南飛行場 データ

設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:茨城県‎水戸市‎酒門町‎
座 標:N36°19′56″E140°28′36″
滑走帯:1,600m×1,100m
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1937年 陸軍省、水戸東部沿岸地域に総合基地建設計画。先行して南部地域に飛行学校開校
1940年 10月1日 陸軍航空通信学校設立
1943年 飛行学校、仙台に移駐。明野陸軍飛行学校水戸分校開校
1944年 明野水戸分校、教導飛行師団に改編。特攻隊編成
1945年 5月 水戸教導航空通信師団に改編


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コメント 9

鹿児島のこういち

こんな近くに飛行場を作って、陸軍はカモフラージュも兼ねるつもりだったのでしょうか?(^^ゞ
飛行場のそばに飛行場。1つがダメになっても、すぐそばでってことですかね(^^ゞ
by 鹿児島のこういち (2012-04-13 11:15) 

miffy

北、東、南とすぐ近くに飛行場をつくったのですね~
まさか西もあるのですか~
by miffy (2012-04-13 21:51) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■鹿児島のこういちさん
ここの飛行場については役割が不明です。
推測するしかないのですが、鹿児島のこういちさんの仰る通りかもしれませんね。

■miffyさん
オイラもそれ思ったのですが、残念ながら西は無いみたいですよ^^
by とり (2012-04-14 06:13) 

me-co

わが餃子タウンのライバル!納豆タウンに、こんなに飛行場があったなんて・・・
それにしても、西の方はあんまりいい地形じゃないから、作らなかったのかな?
by me-co (2012-04-14 14:58) 

とり

■me-coさん
本当にたくさん作ったんですね~。
>地形
そうなんですか! じゃあそういうことかも。
by とり (2012-04-16 06:21) 

コバチャン

<エピソード紹介>
・ここは、当時の陸軍としては、最先端の隼の戦闘機部隊がありました。
 そして、大戦末期に繰り広げられた水戸の空中戦は、地元の古老には知られた話です。
 太平洋から飛来侵入してきた米グラマン24機に対し、当飛行場の隼2機が迎撃に飛び立ちました。隊長機と曹長機とです。
 しかし、多勢に無勢の空中戦の結果、隊長機は火を噴いて那珂川の近くの旧大野村の水田に墜落し、隊長は戦死しました。
 曹長機も、エンジン、主翼等に被弾し異常な煙を発したとかで、機体の反転動作により発火を防ぎ、やむなく水府橋付近の土手に不時着したものでした。
 その際には、火災発生&爆発の危険があったので、住民には近づかないように注意を喚起のため叫んだ後に気絶してしまい、それから救護されたとか。
 後で調べたところ、機体には20発ほどの機銃の被弾痕があったとのこと。
 しかし、幸いにも曹長自身にはほとんど当たらずで、不時着時に腕、肩、頭などを負傷しただけで済み、九死一生を得ました。
 翌日には、腕(骨折か脱臼?)を包帯で吊り下げた姿で、収容された病院から飛行場へ報告に出向いたので、上司や同僚に大変驚かれたとのこと。
by コバチャン (2014-02-18 16:57) 

とり

■コバチャンさん
コメントありがとうございました。
お返事が遅れてしまい申し訳ありません。
by とり (2014-02-27 07:13) 

アクツ

実に興味深い記事ですね。
吉田の飛行場跡地には、30年ほど前には、まだ畑の中に掩体壕が残っていたのを覚えています。
今でも、探しているんですが、どこだったか忘れてしまいました。
by アクツ (2018-02-22 13:31) 

とり

■アクツさん
地元の方ですね。
お邪魔致しましたm(_ _)m
30年ほど前まで残っていたんですね。
貴重な情報ありがとうございます。
1つお尋ねしたいのですが、当飛行場に有蓋掩体壕はありましたでしょうか?
それとも全て無蓋掩体壕でしょうか?
記憶の範囲で構いませんので、教えて頂ければ幸いです。
オイラも週末ちょっと探して記事に反映させてみますので、
宜しければ週明けお暇な時にでもまた覗きにいらしてください。
by とり (2018-02-22 19:02) 

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