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下志津陸軍飛行学校八街分教場跡地 [├空港]

   2012年7月訪問 2019/1/28更新  


無題5.png
撮影年月日1947/04/14(USA M223 68) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


千葉県‎八街市‎にあった「下志津陸軍飛行学校八街分教場」。

通称「八街飛行場」。成田空港34Lエンドの南西約9kmにあります。

まるで方眼紙のような地割の中に、それを無視するかのように滑走路が伸びており、

その跡が道路として残っています。

「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.1 水路部」の中に当飛行場の地図があり、

先頭のグーグルマップは、この地図から作図しました。

地図の通りに飛行場の敷地を作図すると、薄紫の部分になります。

後述しますが、この地図添付資料には、「南北1,470米 東西1,370米」とあり、

これは薄紫の部分とピッタリの数字です。

滑走路が飛び出てしまうため、後に敷地の拡張工事をしたのだと思います。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

「八街陸軍飛行場 千葉県印旛郡八街町 35°40′5N 140°20′0E」

面積 南北1,470米 東西1,370米 総面積200萬平方米 
地面の状況 概ね平坦にして一面に植芝密生す 硬度は普通なるも
降雨長期に亘る際は稍軟弱と為る
目標 八街町、総武本線
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)  
格納設備 格納庫(45x45米)1、(40x30米)2棟
照明設備 (記載なし) 
通信設備 八街郵便局(電信及電話取扱)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料補給し得
修理設備 なし
宿泊設備 生徒舎あり
地方風 (記載なし) 
地方特殊の気象 (記載なし)  
交通関係 八街駅(総武本線)南西方1.7粁 
其の他 本場は下志津陸軍飛行学校分教場なり
(昭和18年1月調)
 

D20_0206.jpg

滑走路跡(赤マーカー地点)。

 

D20_0207.jpg

青マーカー地点。

道路沿いに碑があります。

陸軍司令部偵察隊の碑(全文)
大室孟 謹書 世界の航空戦史に燦然たる功績を残した司令部偵察機諸隊は 主としてこの地で錬成され東亜の全戦域に雄飛し その多くは再び還らなかった

裏面にも碑文が掘られていました。

日華事変-太平洋戦争で活躍した司令部偵察機隊(一部抜粋)

司令部偵察機は、当時の世界に於ける最高性能機であり その高速と高空性能を活かして、単機よく広域の戦略偵察を行い、航空作戦の遂行に寄与した。又大戦末期には武装して対B-29戦闘 対地攻撃及び特別攻撃隊による艦船攻撃に任じたものもあった。まさに世界にその類例を見ない、陸軍航空独特の機種、用法であった。(以下、各飛行隊名が並ぶ)昭和60年5月大室 孟 鈴木素儀 ほかの旧軍関係者に地元八街町の有志も加わり460名に及ぶ協賛者により建立 施行 八街町(有)斉藤石材店

全国の飛行場跡地に設けられた碑文は、そこにあった飛行場のこと、そして敗戦に伴う犠牲について触れているという点で

内容は共通しているのですが、そこには必ず書いた人物の戦争観、死生観が反映され、文体には個性が出ます。

この碑文には「大室孟 謹書」と記されていますが、この人物は当飛行場に駐屯した偵察隊の隊長をされていた方なのだそうで、

そう聞けば納得の内容です。

 

戦後、八街飛行場は食糧増産のため農地として開放されました。

「開墾すれば、2町歩までは無償で与える」とのお達しが出たため、駐屯していた兵士のうち、

空襲で荒廃した郷里に戻ることを諦めた方などがこの地に帰農する決意をしました。

早速残存兵士による「帰農組合」が結成されましたが、八街町と富里村が協議した結果、

兵士以外の希望者も加えることとし、

復員者60名をはじめ、八街町長推薦者20名、富里村長推薦者10名、県知事推薦者10名

計100名を入植者として受け入れることが決まりました。

 

終戦から18年後の1963年9月、「新空港建設候補地に富里・八街」の新聞報道があり、

住民の間に大きな衝撃が走りました。

八街町民の間からは「農業が続けられなくな る」、「一度は八街飛行場建設で畑を提供させられ、国策の犠牲となった。

もう二度と犠牲になるのはゴメンだ」という声が湧き上がりました。

富里村民と連携して激しい空港反対運動をくり広げた結果、

1966年7月、「建設予定地を成田市三里塚に変更する」と閣議決定したのでした。 


      千葉県・下志津陸軍飛行学校八街分教場跡地      

下志津陸軍飛行学校八街分教場 データ

設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:千葉県‎八街市‎朝日‎
座 標:35°40′5N 140°20′0E
滑走路:1,500m×60m
方 位:03/21
(方位はグーグルアースから)

沿革
1939年 文違・古込地区を飛行場建設用地として買収。それに伴い軽便鉄道廃止
1941年 04月 完成
1945年 08月 終戦。食糧増産のため飛行場解放

関連サイト:
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.1 水路部


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コメント 8

tooshiba

実際に先の大戦に動員(召集)されて、生死の境を彷徨わされたり、故郷を失った方にしてみれば。
「国の命令一下で左右されるのはもうコリゴリだ!」ということになるんでしょうね。
その辺の心情は、正直、余り理解できませんが。

千葉県は戦争に否定的な勢力が強いんでしょうか。
by tooshiba (2012-10-29 11:58) 

koume

滑走路って、結構道路になってたりするんですね。
こちらでたくさん拝見しましたが。。

今度、まっすぐな道路を見たら、ここも飛行場跡?って思ってしまいそうです^^;
by koume (2012-10-29 21:13) 

miffy

前回の記事のお話で恐縮ですが、築城タタン見たことありました。
銚子のと同じ形だと思っていたので・・・^^;
by miffy (2012-10-29 21:36) 

an-kazu

成田開港までの、知る人ぞ知る歴史なわけですねφ(..)メモメモ
by an-kazu (2012-10-29 22:57) 

鹿児島のこういち

地元の人達が騒がなかったら、ここに国際飛行場ができたかもしれないのですね。「以前、ここに飛行場があったからここで良いじゃん」みたいな考えだったのでしょう。お役所仕事ですよね(^^ゞ
昨日の南日本新聞に鴨池空港ターミナルビル再開発の記事が書かれてました。解体を含めて検討のようです。
by 鹿児島のこういち (2012-10-30 06:56) 

雅

成田空港に決まるまでにそういう経緯があったんですね。

by (2012-10-30 21:43) 

とり

留守中のコメント、nice! ありがとうございました。m(_ _)m

■tooshibaさん
>その辺の心情
実はオイラもそうです。
体験者にお会いすると、実際に経験しておられる方の感覚の違いを痛感させられます。
>否定的な勢力
全体でどうかは知りませんが、各地の市史、町史を見ると、
戦時中飛行場があったという事実に一言も触れていない自治体は多いです。

■koumeさん
仰る通り道路になる例は多いですね~。
まっすぐな道路を見て「ここも飛行場跡?」と思ってしまったら、
かなりヤバいです。ご注意くださいませ。(o ̄∇ ̄o)ニヤ

■miffyさん
おお、ご覧になりましたか。
というか、お父様の専門ですよね。
オイラもじっくり話をお聞きしたいです。

■an-kazuさん
もしかしたら富里・八街空港だったのかもしれないですね。
茂原にもより近いですね。

■鹿児島のこういちさん
>「以前、ここに飛行場があったから」
なんか如何にもありそうな話ですね~。
>再開発
そうなんですか。
今後ますます鹿児島のこういちさんから頂いた写真が貴重なものになりますね。

■雅さん
成田空港建設の顛末は「ナリタモデル」として世界中の空港建設の
最悪の見本として語られているのだそうです。
by とり (2012-11-05 22:35) 

m.yohko

昭和19年10月3日に千葉県香取の上空で激戦した山口千代光隊長のことが知りたいです誰か知っている人はいませんか
by m.yohko (2017-10-29 16:15) 

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